違わない。
一瞬、蒼に名前を呼ばれている気になった。蒼に抱き締められている気になった。蒼の唇を思い浮かべた——。
これじゃ、本当に欲求不満じゃない……。
「あ、そうだ。明日は内藤社長が蒼と姪っ子の顔合わせに同席するらしい。その後で俺の親父と食事することになってるから、このフロアは一日空になる。お前も明日はゆっくり休め」
充さんは私の頭を軽く撫でて、副社長室を出て行った。
悪ふざけが過ぎるでしょ——。
今頃になって、心臓があり得ない速さで動き出した。
恋人の兄と……なんて、あり得ない——。
充さんだって恋人がいるのに、何やってんのよ——!
半ば、パニック状態だった。
けれど、思考を鈍らせていた霧は晴れた。
明日を無駄にするわけにはいかない。
翌日、私は静まり返った八階の社長室にいた。
防犯カメラの映像は差し替えてあるし、エレベーターを使わずに来たから、警備室でも八階に人がいるとは思っていないだろう。
私はスマホで社長室内の写真を数枚撮影してから、社長のデスクに座った。社長のPCの電源を入れ、自分のノートパソコンも起動させた。
スマホの発信履歴の一番上の番号をタップする。一度目の呼び出し音が鳴り終わる前に、聞き慣れた声がした。
『はい』
「防犯カメラの映像は?」
『問題ない』
「スピーカーに切り替えるわ」
私は通話をスピーカーに切り替えて、スマホをデスクに置いた。
社長のPCは、サインインのためのパスワードを待っていた。私は社長のPCに持って来たUSBメモリーを差し込んだ。十秒で社長のPCがサインインを認めた。
ふと、デスクのメモ用紙が目についた。
『十一時、クイーンズホテル最上階』
私は蒼とペアの腕時計を見た。
十時三十五分。
蒼は今頃ホテルへ向かう車の中だろう。
考えるな!
「侑、どう?」
『侵入した』
これで社長のPCのデータは一文字残らず極秘戦略課のマシンに転送される。
次に私は社長のデスクを物色した。鍵のかかった引き出しは一か所。
持ち帰って失くすリスクを考えたら、鍵はこの部屋にあるはず……。
私は部屋を見渡し、窓際に置かれた壺に目を止めた。
何か入ってます、と言わんばかりの口を大きく開けた壺を覗き込む。
「ビンゴ!」
『ん?』
「こっちの話」
私は壺から小指ほどの大きさの鍵を取り出し、デスクの鍵穴に差し込んだ。軽く鍵を回すと、引き出しがすんなりと開いた。
引き出しの中にはUSBメモリーが三つと、ディスクが数枚。まずはUSBメモリーを取り出し、一つずつ私のノートパソコンにデータをコピーした。
『ざっと見た感じ、プライベートでは使っていないようだ。ブラウザの履歴では、最新でも三週間前にニュースと株価を見ているだけだ』
「侑、社長が所有する物件は調べたのよね?」
『ああ。マンションや別荘に川原が匿われている形跡はなかった』
USBメモリーから私のノートパソコンに吸い込まれていくファイル名が足早に切り替わる中、私は見覚えのあるファイル名を見逃さなかった。
「妻名義の物件はなかった?」
『大阪と名古屋にマンションを持っているけど、どちらも妻や妻の友人が定期的に使用してるから、川原を匿えるとは思えない』
あとは……。
「秘書は?」
『秘書?』
「そう。社長秘書については調べた?」
スピーカーから少し乱暴に、忙しくキーボードを叩く音が聞こえた。それに紛れて、侑がチッと舌打ちする音が聞こえた。
侑が苛立ちを隠さないのは珍しい。
『時間をくれ』
ブツッと通話が途切れた。
社長秘書はノーマークだったのだろう。
内藤社長の第一秘書は五十代の女性で、二十年前から社長の秘書をしている。第二秘書は二十代の男性で、三年ほど前に入社した。
三年前……。
コピーが終わり、私は次のUSBメモリーのコピーを始めた。
どうする……。
迷って、今はデータのコピーに集中することにした。
USBメモリーとディスクのコピーを完了して、私は社長室内を一時間前に巻き戻し、副社長室に移動した。
スマホがリズミカルに揺れて、私は侑からのメッセージを開いた。コメントなしでアドレスが添付されていた。
SNSの書き込みだった。私は進行中の話題に、息をするのを忘れた。
斜め後ろからのアングルで、蒼が女性の腰に手を回して、笑顔を向けている。女性の顔は見えない。腰まであるウエーブの髪が印象的だ。
書き込みからすると、このショットは三十分ほど前のもので、T&N社員が撮影、アップしたもの。
『三男のデート現場に遭遇!』
『もしかしてお泊りだった?』
などと、女子社員たちが騒いでいた。
どうして……。
スマホの画面が切り替わり、侑からの着信を知らせた。
「こんな時に、どういうつもり?」
『咲、行けよ』
昨日の充さんといい、侑といい、簡単に『蒼に会え』と言う。今、私と蒼が会うことで、計画が失敗してしまうかもしれないのに。
私は苛立ちを声に出した。
「やめて!」
『このままだと、蒼は逃げられなくなるぞ!』
そんなことはわかってる……。
私は目を閉じて深呼吸をした。
「侑、秘書は?」
『咲!』
「もういい、自分で調べる」
今度は私が一方的に通話を終了し、副社長室を出た。
社長室と副社長室の間には秘書室があり、十名ほどの重役秘書のデスクがある。私は社長の第一秘書のPCを起動させた。社長の時と同じ手順でサインインし、今度は空のUSBメモリーにPCのデータをコピーする。
次に、第二秘書のPCを起動させる。
侑からだと思われる着信に、ポケットの中でスマホが震え続けていた。
侑は実際の防犯カメラの映像を見ているから、私が秘書室にいることを知っている。
わかってる。
侑のバックアップなしでこんなことをするのは、危険だ。
私じゃない女の腰を抱く蒼の写真に動揺し、自分が冷静でないこともわかっている。
だけど、川原を見つけられたら、和泉社長を復職させられる。
蒼を取り戻せる。
蒼を……。
間に合わなかったら、どうしよう……。
蒼が、会社のために城井坂のお嬢様と結婚してしまったら、どうしよう……。
考えちゃダメだ!
私は自分に言い聞かせて、第二秘書のPCのデータのコピーを始めた。
次いで、第一秘書のデスクの引き出しを覗く。仕事に関係のないものは一つもなかった。
社長にはもったいない、秘書の鏡ね……。
第二秘書の引き出しも同様に、気に留めるものはなかった。正確にはなさ過ぎた。
会社から支給される事務用品が整然と並ぶ引き出し。開封されていないペンや付箋もある。手垢が一切ついていないホッチキスやカッター。
代わりに、第二秘書のPCのキーボードは表記がかすれるほど叩かれていた。マウスに触れると、左のパネルが軽く歪んでいた。使い込まれている証拠だ。
いくら秘書二人で業務を分担しているにしても、不自然だ。
まさか……、やっぱり——。
私はデータのコピーを続ける第二秘書のPCを操作し、バックグラウンドで行われている作業をチェックした。
「やっぱり……!」
私はキーボードを叩くことに夢中で、背後から忍び寄る人影に、全く気がついていなかった——。
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