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芙月みひろ
#裏切り
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並んで歩き始めてから、
しばらく言葉がなかった。
人の流れの中で、
ふたりの歩幅だけが静かに揃っていく。
景兎が少しだけ横を見る。
有莉澄さんは、
前を向いたまま、
指先でスマホの端をそっと触っていた。
緊張しているようにも見えるし、
嬉しさを抑えているようにも見えた。
景兎が口を開く。
「……最近、描いてますか。」
有莉澄さんは
一瞬だけ目を丸くして、
すぐに小さく頷いた。
「はい。
あの……コンテストのあと、
少しずつですけど。」
声は小さいのに、
言葉の端に温度があった。
「見たいです。」
景兎は自然にそう言っていた。
言ったあとで、
胸の奥がわずかに跳ねる。
踏み込みすぎたかもしれない。
でも、取り消す必要はなかった。
有莉澄さんは
足を止めずに、
ほんの少しだけ横を向いた。
「……見てほしいです。
先輩に。」
その一言が、
歩く速度をわずかに変えた。
景兎は
胸の奥の温度が静かに強くなるのを感じながら、
短く返す。
「じゃあ、今度……見せてください。」
「はい。」
ふたりの声が重なった。
その重なりが、
ほんの一瞬だけ
ふたりの距離を近づけた。
沈黙が落ちる。
でも、重くはならない。
むしろ、
その沈黙の中に
言葉より確かなものがあった。
歩道の角を曲がるとき、
人の流れが急に狭くなった。
有莉澄さんが
少しだけ景兎のほうへ寄る。
肩が触れるほどではない。
でも、
触れないように避ける距離でもなかった。
その“間”が、
今日いちばん近かった。
有莉澄さんが
小さく息を吸う。
「……先輩と歩くの、
なんか久しぶりです。」
景兎は
その言葉の温度を受け取るように
ゆっくりと頷いた。
「そうですね。
でも……こうして歩けてよかったです。」
有莉澄さんは
前を向いたまま、
ほんの少しだけ笑った。
「……はい。」
その笑みは、
言葉よりもずっと近かった。
ふたりの歩幅は、
もう完全に揃っていた。