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「……従うしかあるまい」
エスカミオは、血に濡れた剣を握り直した。
「王の命令だ」
ガイロは荒い息を吐き、前方を睨む。
「だが、このままでは兵が折れるぞ」
その言葉の通りだった。
盾は割れ、槍は折れ、
後衛の隊列はすでに波打っている。
一人が倒れれば、
その隙間へアーディルの騎兵が雪崩れ込む。
「ならば――」
エスカリオは声を張り上げた。
「兵を下げるな!」
「倒れた者の上に立て!」
「死体の山を壁にしろ!」
その凄惨な命令に、
一瞬、兵たちの目が見開かれた。
だが次の瞬間、
彼らは歯を食いしばり、
仲間の屍を越えて盾を並べた。
ガイロが吠える。
「聞いたか!」
「ここは道ではない!」
「ここが城壁だ!」
「我らが崩れぬ限り、獅子は負けぬ!」
その叫びに、後衛の兵たちは再び踏みとどまった。
血と砂と死臭の中で、
後衛はもはや軍ではなく、
一枚の壁となっていた。
レイナ女王は、
エレンに出撃を命じた。
後衛の崩壊を防ぐためである。
「いっくよ~!」
エレンは愛馬車《カボチャプリン》に飛び乗ると、
土煙を上げながら後衛へ突っ込んだ。
その光景に、
アーディルは思わず目を疑った。
「……なんだ、あれは」
疾走する数台の馬車。
常識外れの速度で戦場へ飛び込み、
進路上の騎兵を次々とはね飛ばしていく。
さらに――
「どっせぇぇい!」
一台の馬車から、
小斧を両手に持った少女が飛び出した。
「おっ……女ぁ!?」
アーディルが呆気に取られた、
まさにその瞬間だった。
後衛の奥から、
一騎、また一騎と騎兵が躍り出る。
皆、限界まで耐えていた兵たちだった。
だが、この乱入で空気が変わった。
「いまだぁ!!」
「突撃ぃ!!」
ガイロが吼え、
エスカミオが剣を振り下ろす。
押し込まれるだけだった後衛が、
ついに牙を剥いた。
「頃合いじゃの」
レイナ女王は、
戦場を静かに見渡していた。
土煙の向こうで、
サラディン軍の軍旗が揺れていた。
誰もが、
後衛の崩壊を確信していた。
後衛では、
アーディルの騎兵と連合軍が、
もはや敵味方の区別も曖昧になるほどの乱戦を繰り広げている。
サラディン軍の騎兵たちは、
突破のため次々に馬を降り、
白兵戦へ加わっていた。
密集。
混乱。
土煙。
――今じゃ。
レイナ女王は槍を掲げた。
「今より中央の陣へ突撃する!」
「狙うはサラディンの首ぞ!」
鋭い眼が、敵本陣を射抜く。
「いけぇぇい!!」
次の瞬間、
女王旗下の重騎兵が一斉に駆け出した。
地鳴りが響く。
乱戦の只中へ、
鋼鉄の楔が突き刺さるようだった。
徒歩となっていたサラディン軍は、
迫る騎馬突撃への対応が遅れた。
「騎兵だ!!」
「止めろ!」
「止め――」
叫びは、
馬蹄に呑み込まれる。
レイナ女王の騎馬隊は、
乱戦そのものを踏み潰しながら前進した。
槍が人を貫き、
馬が兵を跳ね飛ばし、
剣が火花と共に血を撒き散らす。
土煙の中を、
赤銀の甲冑が閃いた。
「どけぇい!!」
レイナ女王自らが敵兵を斬り伏せる。
その姿に、
味方は熱狂し、
敵は恐怖した。
崩れかけていた後衛の兵たちも、
女王の突撃を見て雄叫びを上げる。
「続けぇぇ!!」
「敵将は目前だ!!」
騎馬隊は止まらない。
横薙ぎに敵陣を切り裂きながら、
一直線にサラディン本陣へ迫っていく。
その突撃はもはや戦術ではなく、
巨大な獣そのものだった。
そして初めて、
サラディンの本陣に動揺が走った。
「あれが、ワルキューレか」
リチャードは呟くや否や、馬腹を蹴った。
止める間もなかった。
赤い外套が風を裂き、単騎、戦場中央へ駆けていく。
「王子に後れを取るな!」
「続けえ!」
その声に、連合軍の騎士たちが雪崩を打った。
崩れかけていた戦列が、ふたたび牙を剥く。
サラディンは、その動きを一目で見抜いた。
中央突破。
狙いは、自分の首。
「……躱せぬか」
短く呟くと、彼は即座に命じた。
「予備を盾とせよ。守衛は下がれ」
勝つためではない。
今は、王を失わぬために。
その頃、サイラスとユンナも馬に飛び乗っていた。
「まったく、英雄というのは」
サイラスは苦笑した。
「人の策を、いつも少しだけ早く踏み越えていく」
二騎は、リチャードの赤い背を追って戦場へ駆け出した。
砂塵の向こうに、黒い森が見えていた。
サラディン軍は、その陰から絶え間なく姿を現している。
リチャードは馬上で口を開いた。
「……サラディンは森にいると思うか」
馬を並べたリチャードが問う。
隣に追いついたサイラスは、
わずかに目を細めた。
「これまでのサラディンなら、
必ず伏兵を置きます」
「では今は?」
「全軍を投じた決戦なら、
置いていない可能性が高いかと」
サイラスは戦場を見渡しながら続けた。
「敵軍を壊滅させるか、
あるいは自軍が壊滅するか」
「……その二択です」
しばし沈黙が落ちた。
風だけが軍旗を鳴らしている。
やがてリチャードは、
ふっと息を吐いた。
「やめだ」
意外な言葉に、サイラスはわずかに目を見開く。
リチャードは前を見据えたまま言った。
「勝てば英雄。負ければ全滅」
「そんな戦を、私は好かん」
赤い外套が風に揺れる。
「兵は賭け札ではない」
戦場は、ゆっくりと静けさを取り戻しつつあった。
サラディン軍は、
疲れ切った馬を叱咤しながら、
少しずつ隊をまとめ、
森の奥へと退いていく。
追撃する余力は、
もはや双方になかった。
土煙の中、
リチャードは馬を降りると、
その場にどさりと座り込んだ。
額から汗が滴る。
肩で息をし、
剣を握る腕は、
鉛のように重かった。
そこへ、
レイナ女王が歩み寄ってくる。
返り血を浴びた甲冑。
それでもその瞳だけは、
獣のように鋭かった。
「なんじゃ、だらしないのう」
女王は呆れたように笑った。
「妾もサラディンを討ち損ねた」
リチャードは苦笑する。
「……化け物だな、あの男もあんたも」
「うむ」
レイナ女王は短く頷いた。
「あれほど追い詰められてなお、軍を崩さず退く」
「並の王なら、とっくに踏み潰されておる」
「ところで森に伏兵はおらなんだぞ」
「そうか、逃したか」
風が吹き抜ける。
遠くでは、まだ傷兵たちの呻き声が続いていた。
アル・スープでの敗北が伝わると、
湾岸諸都市は次々と降伏した。
サラディン軍の敗北は、
それほどまでに衝撃だった。
各地の太守たちは、
もはや援軍は来ないと悟ったのである。
サラディンは残存兵力をまとめながら、
ただちに命令を下した。
「要塞を破却せよ」
「リチャードに、拠点を渡すな」
撤退の途上、
各地の城砦には火が放たれた。
さらに彼は、
エルガルドへ至る領地に対し、
早期収穫を命じる。
間に合わぬ畑は、
すべて焼き払われた。
焦土作戦である。
敵に糧食を与えず、
補給を絶ち、
長期戦へ引きずり込む。
サラディンはまだあきらめてはいなかった
やがてサラディンは、
傍らのアーディルへ視線を向けた。
「兄弟そろって、エルガルドで死ぬか」
静かな声だった。
だが、その奥には、
鋼のような覚悟が宿っている。
アーディルは即座に頭を垂れた。
「はい。よろこんで」
そこに迷いはなかった。
なお聖地を守るため、
最後まで立つ覚悟を決めた兄弟の姿があった。