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次の対象は、記録上は“問題なし”だった。
犯罪歴もない。
過激な発言もない。
人望もある。
それでも、俺の端末は名前を表示していた。
消去対象――
そう分類されている。
その女は、学校の講堂で話していた。
教師でも政治家でもない。
ただの市民だ。
にもかかわらず席はほとんど埋まっている。
「難しいことを言うつもりはありません」
女の声は落ち着いていて、よく通った。
誰かを責める調子ではない。
命令もしない。
ただ、事実を並べる。
「私たちは、黙りすぎていると思うんです」
胸の奥で、嫌な感覚がした。
この手の声は危険だ。
静かで、正しくて、逃げ場がない。
「間違っているなら、間違っていると 言えばいい。 傷つく人がいるなら、目を逸らさなければいい」
客席の何人かが、うなずいた。
小さな同意が、確かに広がっていく。
俺は講堂の後方で立ち止まった。
本来なら、ここで迷いはない。
対象が指定されている以上、処理するだけだ。
それでも、指先が動かなかった。
「誰か一人が声を上げれば、世界は変わるかもしれないのです」
女はそう言って、微かに笑った。
その瞬間、はっきりと理解してしまった。
――この声は、広がる。
怒りではない。恐怖でもない。
“納得”という形で、人を動かす声だ。
俺は息を吐き、処理を開始した。
熱が指先から走る。
「だから私は――」
女の声が、消えた。
講堂は一瞬だけ静まり返り、すぐにざわめきが戻る。
女は話し続けている。
口も、身振りも、さっきまでと変わらない。
だが、誰も聞いていなかった。
客席の人間たちは、互いに顔を見合わせ、首をかしげる。
数人は席を立ち、出口へ向かった。
「……え?」
女は困惑した表情で、マイクを叩いた。
それでも、声は戻らない。
俺はその場を離れた。
仕事は、完了している。
外に出ると、夜風が冷たかった。
街はいつも通りだ。
騒音も、人の流れも、変わらない。
――はずだった。
通りを歩く人々は、話している。
笑っている。
電話もしている。
それなのに、どの声も浅い。
意味が、残らない。
まるで、言葉が表面を滑っていくだけで、
誰の中にも沈まなくなっている。
俺は足を止めた。
ふと、さっきの女の言葉を思い出す。
「 黙りすぎていると思うんです。 」
気づいたときには、
その言葉を正確に思い出せなくなっていた。
内容も、響きも、理由も。
ただ、「何か大事なことだった」という感覚だけが残っている。
それが、ひどく不安だった。
―正しい声まで消し始めたら、どうなる?
問いは浮かんだが、答えは出さなかった。
考える必要はない。
俺は、選ぶ側だ。
そう言い聞かせて、歩き出す。
背後で、誰かが何かを言った気がした。
振り返っても、そこには誰もいない。
ただ、
声の抜け殻のような静けさだけが、残っていた。