テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
桃の腕に、翠は抱え上げられた。
軽い、と思われたくなくて、
無意識に体に力を入れようとして、
でも、できなかった。
視界が、
ゆっくり揺れる。
街灯の光が、
ひとつ、ふたつ、
線みたいに流れていく。
「……翠」
誰かが名前を呼んでる。
近い。
でも、誰だったか、すぐには分からない。
「起きてるか?」
……起きてる。
たぶん。
そう返事したつもりだったけど、
口は、ほとんど動かなかった。
代わりに、
小さく、息が漏れる。
「……大丈夫だから」
また、その言葉。
もう、
自分でも何回言ったか分からない。
「大丈夫な顔じゃない」
低い声。
茈。
その声を聞いた瞬間、
胸の奥が、きゅっとなる。
——言われちゃった。
桃の腕の中は、
あったかい。
揺れが一定で、
それが、やけに眠気を誘う。
だめだ。
寝たら、
何か大事なことを忘れる気がする。
何だっけ。
……証拠?
スマホ。
鞄。
意識が、
そこに引っ張られて、
指先が、少しだけ動く。
「……大丈夫」
桃の声が、すぐ上から落ちてくる。
「今は、何もしなくていいから」
“今は”。
その言葉に、
妙に安心してしまう自分が、
少し怖い。
「……赫ちゃん」
名前が、
勝手に口から出た。
一瞬、
周りの空気が止まる。
「赫は、家だ」
黄が、すぐに言う。
「ちゃんと、待ってくれてるよ」
その“待ってる”が、
責めじゃなくて、
ただの事実だったから。
胸の奥が、
じんわり、熱くなる。
「……よかった」
その一言で、
力が、すっと抜けた。
視界の端が、
暗くなっていく。
でも、
完全には落ちない。
遠くで、
誰かが話してる。
「……なんで、あんなとこに?」
言葉が、
水の中みたいに歪む。
聞き取れないのに、
“心配されてる”ってことだけは、
分かる。
それが、
少し、くすぐったい。
——いいな、って言ったくせに。
今は、
その“いいな”が、
自分にも向いてる気がして。
罪悪感と、
安心が、
ぐちゃぐちゃに混ざる。
家の玄関の音。
「翠、家に着いたよ」
6,326
桃の声。
その瞬間、
翠は、
やっと目を閉じた。
眠る、というより、
意識を預けるみたいに。
コメント
1件