その途端、わたしの周囲にぶわりと突風が巻き起こった。
ブオンブオンと風は激しく音を響かせ、それを見た馬屋原先生の顔色が青く染まる。
わたしがこれからどうするつもりなのか、それを理解した榎先輩は慌てたように馬屋原先生から離れ、壁際へと身を寄せた。
「な、なにをするつもりですか!」
口の自由を取り戻した馬屋原先生が、飛び起きながら叫び声をあげた。そしてわたしの方へ腕を上げ、その魔法の力を打ち消そうと呪文を唱えるものの、けれど馬屋原先生には風の魔法を打ち消すほどの魔力はなかったらしい。わずかに私の巻き起こす風を弱めただけに終わり、先生は悔しそうに歯を食いしばった。
そんな私たちの横では、シモハライ先輩と楸先輩の取っ組み合いにも似た攻防が続いている。
「目を覚ましても、僕は真帆の事を愛してる! 真帆以外の女の子になんて、本当に興味はないんだ。僕を信じてよ!」
「信じられません!」
シモハライ先輩から数歩後ずさりながら、楸先輩はそう叫んだ。
再び闇に浮かびあがった楸先輩の目は、射貫くようにわたしに向けられ、
「だって、この間も鐘撞さんと――!」
「だから、それは違うんだ! 僕はただ、遅刻して困っていた彼女を先輩として――」
「信じられるものですか!」
「真帆……!」
一歩踏み出したシモハライ先輩に、楸先輩は一歩後ずさる。
それを見て、馬屋原先生は、
「そうですよ! 男なんて、相手が女とあれば誰だって浮気してしまう生き物なんです、信じてはいけない!」
「黙れ!」
わたしは思わず叫び、その手を馬屋原先生に向かってバッと伸ばした。
その瞬間、わたしを取り巻いていた風が一気に馬屋原先生へと襲い掛かる。
「ぐおぅっ!?」
先生の体は一気に上空へと巻き上げられ、先ほどわたしが楸先輩の魔法によってされたのと同じように――いや、もっと激しく、強く、床の上へと叩きつけられた。鈍い音があたりに響いたかと思うと、馬屋原先生の体はピクリとも動かなくなる。
もしこれが現実であれば、きっと骨の二、三本、或いは打ちどころ次第ではその命を落としていたかもしれないほどの衝撃を、馬屋原先生に与えたその感触が、わたしの手のひらに残っていた。
ホウキに乗れるということは、それだけ風を操る魔法に長けているということ。楸先輩が風の魔法でわたしの体を持ち上げて地面に叩きつけたように、わたしにも同じ魔法が使えるのだ。
けれど、わたしはまだまだ修行の身。それゆえに力のコントロールがへたくそで、おばあちゃんやママからは「絶対に人に向かって風の魔法を使ってはいけない」と、さんざん言われてきたはずだったのだけれど、
「うぐううっ……!」
馬屋原先生の、その痛みにうめく声でハッとわたしは我に返る。
「せ、先生――!」
思わず口にして、けれど駆け寄るほどには至らない。
先生がわたしたちにやったことと、今わたしが先生にやったことの間で、わたしの心はぐちゃぐちゃでどうしたらいいのかわからなかった。
榎先輩に目を向ければ「よくやった」とばかりに満面の笑顔で頷いている。
シモハライ先輩たちの方に目を向ければ、ふたりは対峙したまま睨み合い、
「信じて真帆! 僕は、本当に、真帆だけを愛しているんだ!」
「ウソだウソだウソだ!」
楸先輩は激しくかぶりを振っていた。
「だって、わたしは、いつも優くんを困らせてる! きっと愛想をつかされてる!」
「そ、そんなことない! そんなことないよ、真帆!」
「信じない! だって、だって私は、私は――!」
目に涙を浮かべながらこぶしを握り締め、そして、
「わああああああぁあぁぁっ!」
突然、大声で叫んだかと思うと、そのままシモハライ先輩の方へ駆け出し、再び襲い掛かろうと地を踏み出した、その瞬間。
「……あう?」
シモハライ先輩と楸先輩の間に、ひとりの赤ん坊が突如姿を現したのだ。
涎掛けをしたその赤ん坊は、辺りをきょろきょろと見回して、ふと楸先輩の姿に気が付くと、満面の笑みを浮かべてから、
「あぁっ!」
と両手を広げて見せた。
「え、あ、なんで……!」
楸先輩は立ち止まり、困惑の表情でその赤ん坊と視線を交わす。
「――え、なに、あの子」
榎先輩が口にして、
「わ、わかりません……」
わたしも、同じく困り果てる。
「な、なんなんだ、アイツは……! どうして、こんなところに赤ん坊が出てくるんだ! 誰だ、誰なんだアイツは……!」
馬屋原先生も、苦し気な声で目を丸くする。
当然のようにシモハライ先輩も驚いたような表情で、その赤ん坊の後ろ姿を見つめたままだ。
わからない。いったい、どうしてこんなところに突然、赤ん坊が?
どこから来たの? いったい、どうやって?
戸惑うわたしたちの視線の中、楸先輩はすっと膝を落とし、赤ん坊の方へ両手を伸ばして。
「あ、危ない!」
思わず口にして、赤ん坊に駆け寄ろうとした次の瞬間。
「……ごめん。ごめんなさい、カケルくん――」
楸先輩はつぶやき、ぎゅっとその赤ん坊を抱きしめた。
「あうぅ!」
赤ん坊は嬉しそうにきゃっきゃっ笑う。そしてまるで霧のように、その姿をすっと、消してしまったのだった。
楸先輩はそれでもなお虚空を胸に抱き続け、目には涙を浮かべていた。
カケルくん……? あの赤ん坊の名前? いったい、楸先輩とどういう関係なの……?
シモハライ先輩はそんな楸先輩のもとへ駆け寄ると、
「――真帆」
彼女の身体を正面からぎゅっと強く抱きしめる。
「愛しているよ、真帆。これまでも、そしてこれからも」
その言葉に、楸先輩も満面の笑みを浮かべながら。
「――はい」
その瞬間、楸先輩の身体を覆っていた闇が、急速に彼女の中へと吸い込まれるようにして収縮していき――やがて制服姿の、いつもの楸先輩の姿がそこにはあった。
何が起きたのか、まるで理解できなかった。
あれだけ頑なだった楸先輩の心を、あのカケルくんと呼ばれた赤ん坊は、一瞬にして……?
これまでまとっていた恐怖すらそこにはなく、シモハライ先輩も楸先輩も、ただ互いの身体を強く抱きしめ続けるだけだった。
わたしは肩の力が抜け、思わずその場にぺたんとおしりをついて座りこむ。
このまま倒れてしまうそうになるのを、駆け寄ってきてくれた榎先輩に支えてもらいながら、
「終わった……んですかね?」
「たぶん?」
榎先輩も、小さく息を漏らしながら首を傾げた。
その時だった。
「何故だ、何故だ 何故なんだ! ちくしょー! ちくしょー!!」
怒り狂ったような表情で、馬屋原先生が体をかばうようにして立ち上がる。
「なんなんだ! なんなんだあのガキは! チクショーが! あと少しで夢魔が完全に目覚めるところだったのに! くそがくそがくそが!」
悪態を吐きながら、馬屋原先生はふらふらと後ずさり、
「もういい! もういい! これでおしまいだ! どうせお前たちはこの夢から抜け出せないんだ、二度と目覚められないんだ! せいぜい仲良くやっていればいい!」
アハハハッ! と高笑いした馬屋原先生の姿はゆっくりと透明化していき、やがてその姿を完全に消してしまった。
「……二度と目覚められない?」
榎先輩が眉間にしわを寄せて口にしたところで、次の瞬間、ばっとわたしたちの周囲が真の暗闇に閉ざされた。
見えるのはシモハライ先輩と楸先輩、そして榎先輩の姿だけ。
今まであった書棚も何もなくなって、終わりのない闇だけが広がっている。
「お前ら全員、夢の中を永遠にさまよい続けるがいい!」
馬屋原先生の叫び声が、闇の中にこだました。
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