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柘榴とAI

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第8算話 掛ける者
その日、坂の風は遅かった。
吹いていないわけではない。
洗濯物の端は揺れているし、看板の紐も時々鳴る。
なのに、町全体がどこか一拍だけためてから動くみたいだった。
ローリエはそれを変だと思いながら、駄菓子屋の戸を開けた。
甘い粉のにおい。
紙箱の乾いたにおい。
缶のふたの、少しだけ鉄っぽい気配。
いつもの店の中なのに、今日はそこへもうひとつ、静かな重さが足されていた。
レジの前に、知らない背中がある。
高い。
でも大きくは見えない。
細い首、少し長い髪、灰色の上着。
振り向くまでの時間が妙にゆっくりで、振り向いたあとの目だけが早かった。
その目は、ローリエの顔より先に、かばんの膨らみを見た。
「来た」
その声は小さい。
けれど、聞き返す気にならないくらい、そこへ置かれた。
おばあちゃんがレジの奥から言う。
「かけじゃよ」
名前だけが先に落ちた。
かけは、へえ、とも、はじめまして、とも言わなかった。
ただ、机の上に置かれた自分のそろばんへ指先を添えた。
それだけで、ローリエは少しだけ喉の奥が乾いた。
速い相手は見た。
待たない相手も見た。
けれど、この相手は違う。
触る前から、積んでいる。
そんな感じがした。
「イオウに負けたんだって」
かけが言った。
言い方は軽くない。
軽くないのに、刺してくる深さが浅すぎない。
ローリエは、はい、とだけ返した。
「聞いた」
かけはそれだけ言って、そろばんを持ち上げた。
木枠は細く、珠の並びは静かだ。
派手な癖はない。
ないのに、触れた瞬間だけ全部が深く見える。
「速いの、苦手なんだね」
ローリエは返事をしなかった。
違う、と言いたかった。
苦手なのは速さそのものじゃない。
決める前に来られることだ。
でも、その言い方を探している時点で、もう一拍遅い気がした。
おばあちゃんは菓子の箱をひとつ脇へ寄せた。
「外、行きな」
かけは黙って戸へ向かった。
返事もない。
でも、その無言に逆らいにくい空気がある。
店の前の坂、その少し下に、小さなひらけた場所がある。
石段の脇で、用水路の音が細く聞こえるところだ。
ローリエはその場所へ立った瞬間、短い髪の子と結び目のゆるい髪の子が塀の向こうから顔を出しているのに気づいた。
「またやるの」
短い髪の子が言う。
おばあちゃんは止めない。
止めない代わりに、店先から少し離れたところに立ち、視線だけを坂へ置いた。
かけは空き地の真ん中へ出る。
歩幅が小さい。
でも遅いわけじゃない。
必要な場所へだけ時間を使う歩き方だった。
「先でいいよ」
その一言で、ローリエはかばんからそろばんを出した。
先。
先に置けるなら、それで有利になる。
そう思う。
でも、かけの目の前でその有利さが少しだけ頼りなく感じた。
ローリエは珠の袋を開く。
水色。
茶色。
緑。
軽い数字へ向く珠。
前へ出すか、受けるか、広げるか。
相手は速くない。
なら、丁寧に組める。
こちらの得意な形に持ち込める。
そう考えた瞬間、かけがわずかに目を細めた。
見抜かれたような気がして、ローリエの指先が一瞬だけ止まる。
いや。
止まるな。
最上位から右へ。
左で構造。
右で結果。
ローリエは水色を上へ入れる。
止める。
茶色を下へ。
止める。
その右へ、軽い珠。
さらに、最後に押しを置くか迷う。
迷って、置いた。
かけはその全部を見ていた。
見ているのに、まだ何もしていない。
ただ、自分のそろばんへ珠を二つだけ入れる。
少ない。
少なすぎて、最初は意味が薄く見えた。
ローリエは先に弾いた。
パチ。
浅い広がりが前へ出る。
すぐ次で、受けた流れを押し返す。
最後の一打で、細い衝きをつくる。
空気が少し前へ鳴り、かけの足元の土がやわらかくずれた。
普通なら、ここで一度動く。
受けるか、下がるか、横へ流れるか。
でも、かけは動かなかった。
動かないまま、指だけが一度、そろばんを打った。
乾いた音。
それだけのはずなのに、さっきまで浅かった土のずれが、急に深く沈んだ。
ローリエの目が見開く。
自分の一打が、相手の前で別の重さになったみたいだった。
軽い揺れだったはずなのに、かけの前で受け止められた瞬間、そこへ別の圧が重なる。
薄い板が、上から急に石に変わるみたいな変わり方だった。
「っ……」
ローリエは一歩引く。
かけのそろばんの中で、珠がほとんど増えていない。
なのに、今の一打で現れたものは、二打や三打の積み重ねみたいに重かった。
掛けている。
頭の中でその言葉が鳴る前に、かけはもう二度目を入れていた。
今度は珠をひとつ増やす。
少ない。
やはり少ない。
しかし、その少なさが逆にいやだった。
何をどこへ重ねるつもりか、見えにくい。
ローリエは次を組む。
さっきの構造は読まれた。
なら少し右を削るか。
いや、削ると軽すぎる。
先に受けを厚くするか。
でも厚くすると、掛けられた時に重みを持っていかれる。
なら、途中で切る形にするか。
判断が分かれた、その時。
かけが弾いた。
今度は、遅れてきた。
音は小さい。
現象も、一瞬では見えない。
けれど、遅れて、ローリエの足元の石が低く鳴った。
その鳴りは一回ではなく、二度、三度、同じところへ沈むみたいに重なってくる。
多段掛け。
軽い構造へ、一枚、また一枚と見えない重さが乗る。
ローリエはたまらず横へ避けた。
石段の端が靴底を叩く。
用水路の水が、いつもより近く聞こえた。
短い髪の子が塀の向こうで息をのむ。
結び目のゆるい髪の子は、両手を口の前で握っていた。
かけはまだ、ほとんど動いていない。
速さで押してこない。
追い立てもしない。
なのに、場が少しずつ狭くなる。
遅いのではない。
逃がさないように、遅くしている。
ローリエはようやく、そのいやらしさに気づいた。
「……最初から」
かけが初めて少しだけ笑う。
口元が線のまま、ほんのわずかにゆるむ。
「右、置くよね」
言われて、胸が一瞬ひやりとした。
ローリエは右を置く。
最後の押し。
最後の仕上げ。
きれいに決めるための一打。
そこを置きたくなる。
見抜かれている。
かけは、その癖を前提に場を作っていた。
最初の軽い構造。
受け止める形。
そこへ掛ける重さ。
全部、ローリエが最後に右を置くことを待っていた。
待っていたのに、速い相手より息苦しい。
ローリエは歯を食いしばり、右を捨てる形を組もうとした。
途中で切る。
残す。
次へつなぐ。
おばあちゃんに言われたことを、手の近くへ持ってくる。
水色。
茶色。
右は浅く。
最後は置かない。
そのつもりで上段へ入れた瞬間、かけの指がまた動いた。
パチ。
今度は、自分の側ではなく、ローリエの途中へ来た。
浅い風にも、重い押しにも見えない。
ただ、構造の間へ細い杭みたいな違和感が差し込まれる。
ローリエの指がわずかに止まる。
止まった、その場所へ、かけの二度目が来る。
掛ける。
さっき差し込まれた違和感が、急に重さを持つ。
途中で切るつもりだった流れが、その途中ごと沈む。
「っ……!」
ローリエはそろばんを持つ手ごと体をひねった。
それでも遅い。
肩の外側へ重いものがぶつかり、制服の布が短く鳴る。
一撃は大きくない。
でも、その一撃が入ったことで、自分の途中が全部、悪い形へ見え始める。
ひとつの判断ミスが、一撃で返せない差になる。
その意味が、肩の熱で分かった。
かけは追ってこない。
それがさらに苦しい。
追われるなら切れる。
でも、積まれると、自分で崩れたくなる。
ローリエは呼吸を整えようとした。
しかし整える前に、かけはまた珠をひとつだけ足した。
ひとつだけ。
その少なさが、もう脅しだった。
「積むんだ」
ローリエが口の中で呟くと、かけの目が少しだけ動く。
「そう」
認めた。
隠さない。
でも、全部も言わない。
ローリエはここで初めて、掛け算がただの強化ではないと知った。
後ろへ大きく足すものではなく、途中へ重さを増やすもの。
しかも、相手の癖と選択の先へ置くもの。
構造の途中に罠がある。
なら、自分の構造そのものを読まれないようにしなければいけない。
だが、ローリエは構造をきれいに組む。
きれいだから読まれる。
右へ最後を置きたくなる。
置きたくなるから待たれる。
自分の長所が、そのまま罠になる。
ローリエは額の横の髪を風に揺らされながら、次を決めた。
きれいに組まない。
わざと少し崩す。
左を厚くせず、途中で速い珠を先に置く。
受ける前に、広がる。
広げる前に、細く刺す。
いびつだ。
でも、今はそれしかない。
上から。
止める。
右へ。
先に。
下から。
あとで。
自分でも気持ち悪い順番だった。
けれど、それをそのまま弾いた。
音が、少しだけばらける。
しかし、そのばらけがよかった。
かけの目が初めてほんの少しだけ細くなる。
待っていた形が来なかった。
浅い衝きが足元をかすめ、遅れて広がりが横へ流れた。
きれいではない。
でも、読まれきってはいない。
短い髪の子が塀の向こうで、小さく声を漏らした。
「今の、変」
その通りだった。
変だ。
ローリエ自身もそう思う。
けれど、変だからこそ、かけの掛け算が一拍だけ遅れた。
その一拍を拾えれば。
そう思った瞬間だった。
かけの指が、ふたつ続けて落ちた。
パチ。
パチ。
短くない。
むしろ遅い。
だが、その遅さの二つが、さっきのいびつな流れへ順番に重なる。
最初の一打で、広がった部分が沈む。
二つ目で、先に刺したはずの細い衝きが、逆にこちらの足場を割る。
「……え」
ローリエの口から、思わず漏れた。
返されたのではない。
使われたのだ。
自分がわざと崩して出した流れすら、かけはその場で拾って重くした。
掛け算は、相手の間違いを罰するだけじゃない。
相手の工夫すら、素材に変える。
ローリエは避けきれず、今度は膝をついた。
石が固い。
前より深く当たる。
息が短くなる。
かけはそこで、やっと一歩だけ前へ出た。
遅い。
たった一歩なのに、その一歩で場の重心が全部向こうへ寄る。
「きれいに読む」
かけが言った。
「途中で切る」
また一歩。
「崩して誤魔化す」
そのたび、ローリエの胸の奥へ冷たいものが入る。
全部、見られている。
「でも」
かけの目が、そろばんではなくローリエの指を見る。
「最後、整えたくなる」
ローリエは息を呑んだ。
その癖まで、見られている。
きれいに組みたい。
途中で崩しても、どこかで整えたい。
整えて終わりたい。
その欲が最後に出る。
かけはそこへ掛ける。
罠は一か所じゃない。
何重にもある。
どれか一つを避けても、別の一つへ足が入る。
ローリエは立ち上がろうとした。
だが、肩と膝の熱が遅れて重くなる。
かけは追い討ちをかけない。
ただ、そろばんを少しだけ下げた。
「今日はここまで」
その言い方が、勝った側の情けではなく、まだ先がある側の区切りみたいで、余計に悔しかった。
「なんで」
ローリエの声は少し掠れた。
「まだ、できる」
かけは首をわずかに傾けた。
「できるのと、返せるのは違う」
その言葉が、石段の端より硬く入る。
返せない。
たしかにそうだった。
今この場で、次に何を置けばいいかは浮かぶ。
でも、その次の掛け算まで見えない。
見えたとしても、さらにその先がある気がする。
積み上げの深さが、自分の頭の一枚先にいる。
短い髪の子が、塀の向こうから怒ったように言う。
「ずるい」
かけはそっちを見ない。
「そう見えるなら、強いってこと」
静かにそう返した。
結び目のゆるい髪の子は、ぎゅっと指を握りしめている。
おばあちゃんは店先で動かない。
止めない。
助けない。
見ている。
ローリエはようやく立ち上がった。
膝の土を払う。
手が少しだけ震える。
悔しさでなのか、重みの残りでなのか分からない。
かけはそろばんを布へ包みながら言った。
「速いのが壁なら、遅いのは底だよ」
その言葉の意味が、すぐには全部分からなかった。
けれど、足元が抜ける感じだけは分かった。
速い相手には追いつけなかった。
遅い相手には沈められた。
戦いの広さが、一段深くなった。
かけはそのまま坂の下へ歩き出した。
歩幅は小さい。
けれど、背中が遠ざかる速度は妙に速い。
途中で一度も振り返らない。
ローリエは、その背中が見えなくなるまで立っていた。
それから、ようやく店先へ戻る。
おばあちゃんは何も言わず、まず濡らした布を差し出した。
ローリエは受け取り、膝の土を拭いた。
布の冷たさで、ようやく呼吸が少し整う。
「重いですね」
やっと出た言葉が、それだった。
おばあちゃんは頷く。
「掛ける子は重いよ」
「少ないのに」
「少ないから重い時もある」
ローリエは石段へ腰を下ろした。
頭の中で、さっきの流れを何度も巻き戻す。
最初の軽い構造。
その上に乗った重さ。
途中で切ろうとした形に差し込まれた違和感。
自分で崩した流れすら、向こうに使われたこと。
「罠、でした」
「そうじゃね」
「最初から」
「そうじゃね」
ローリエは布を握ったまま、少しだけ目を閉じた。
「ぼくの右、見てた」
「うん」
「最後に整えたくなるのも」
「うん」
「どうすれば」
そこまで言って、言葉が止まる。
おばあちゃんはしばらく黙ってから言った。
「見抜かれとる癖を、まず自分で認めることじゃないかね」
ローリエは答えなかった。
答えないかわりに、布を持つ手へ少し力が入る。
認めているつもりだった。
最適解を探しすぎること。
最後を整えたがること。
きれいに終わりたがること。
でも、認めるのと、そこを使われる重さを知るのは別だった。
今日は、それを知った。
「掛け算って」
ローリエが言う。
「強くするだけじゃないんですね」
「うん」
「待つためにも使う」
「うん」
「相手の途中を、別の意味にするためにも使う」
おばあちゃんは、そこで少しだけ目を細めた。
「よう見とる」
「いや」
ローリエは首を振る。
「見せられました」
その言い方に、おばあちゃんは否定しなかった。
店の向こうで、戸が少し鳴る。
風が通り、看板の紐が乾いた音を立てた。
短い髪の子がそっと近づいてくる。
「だいじょうぶ?」
「大丈夫」
そう答えたが、声は少しだけ遅れた。
結び目のゆるい髪の子が、ローリエのそろばんを見る。
「こわかった」
「うん」
「ゆっくりなのに」
その言い方で、ローリエは少しだけ笑いそうになって、笑えなかった。
ゆっくりなのに、こわい。
たぶん、それが一番近い。
イオウの速さは、来る前から息が詰まる。
かけの遅さは、来るまでに沈められる。
どちらも違う壁だ。
違うのに、どちらも自分の欠点へ真っ直ぐ入ってきた。
短い髪の子が、ぽつりと言う。
「でも、今の、途中まではよかった」
ローリエは顔を上げた。
「途中までは」
「変だったけど」
結び目のゆるい髪の子も、こくりと頷く。
「いつもみたいじゃなかった」
その言葉が、少しだけ胸へ残った。
いつもみたいじゃなかった。
つまり、少しは変われていたのかもしれない。
けれど、その変化すら拾われた。
「もっと変にならないとだめかもね」
短い髪の子が言うと、おばあちゃんが小さく鼻を鳴らす。
「簡単に言うねえ」
「だって、読まれたんでしょ」
まっすぐすぎる。
でも、そのまっすぐさが、今はありがたかった。
ローリエはそろばんを膝へ置いた。
珠の並びはもう空に近い。
それなのに、さっきの重さだけがまだ残っている気がする。
ひとつの判断ミスが、一撃で返せない差になる。
それは速さだけの話ではない。
積み上げる相手にも同じだ。
いや、積む相手の方がもっと深い。
ローリエは指で珠をひとつずつ戻した。
カチ、カチ、と小さな音がする。
「戦いって」
思わず出た声を、おばあちゃんも子どもたちも黙って聞いた。
「広いですね」
誰もすぐには返さなかった。
最後に、おばあちゃんが言う。
「まだ入口じゃよ」
入口。
それを聞いて、ローリエは少しだけ息を吐いた。
ここまででずいぶん見たつもりだった。
でも、入口なら、まだ見ていないものがいくらでもある。
見たくないような、見たいような、妙な気持ちだった。
夕方の坂は、少しだけ色を沈めていた。
石段の端、用水路の縁、店先の木箱。
どれも同じ場所にあるのに、さっきまでより深く見える。
ローリエは立ち上がった。
膝の痛みは残っている。
でも、それより、頭の中の方が静かではいられなかった。
掛け算。
重ねること。
待つこと。
途中を奪うこと。
癖を読んで、そこへ罠を置くこと。
戦いの奥行きが、今日は一段、深く下へ落ちた。
その底を見た気はしない。
ただ、底があると知った。
それだけで、帰り道の坂が少しだけ長く感じられた。