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朝の空気は、やけに澄んでいた。雲ひとつない青の下で、世界だけが静かに新しく始まっていく。

それなのに、遥の身体は昨日の夜から、ずっと冷えたままだった。


制服の襟を指で押さえる。

鏡に映る自分の首元には、まだ赤い跡がかすかに残っていた。

それを見ないように、視線を逸らす。

夢の中で聞こえた日下部の声が、まだ耳の奥に残っている。


「……お前のせいで、俺まで壊れそうだ」


その一言が、現実のものだったのか、もう分からない。


家を出ると、朝の光がまぶしくて、目が焼けた。

道の先に、日下部の姿が見える。

背中を向けたまま、ポケットに手を突っ込み、いつものように校門へ向かっていた。


胸の奥が、一瞬、少しだけ軽くなる。

呼びかけようとして、息が止まった。


“離れることが救いになる”


怜央菜の声が蘇る。

その響きが、心のどこかで現実のように固まっていた。


「……遥?」


振り向いた日下部の声に、身体がびくりと跳ねた。

思わず後ずさる。

その仕草に、彼が一瞬、驚いた顔をする。


「お前……どうした? 顔色、やばいぞ」


「……なんでもない」


「なんでもなくねぇよ」


「だから、放っといてよ」


その言葉が、思っていたよりも強く出た。

自分でも驚くほど、刺すような声だった。

日下部が黙る。

目の奥に、一瞬だけ痛みのようなものが浮かぶ。


「……怜央菜に、相談した」


その名を聞いた瞬間、遥の心臓が跳ねた。

足元が急に浮いたように、息が詰まる。


「お前のこと、心配で……でも、あいつに止められた」


日下部の声が、まっすぐだった。


「“お前のために離れろ”って。……でも、俺は納得してねぇ」


遥は口を開こうとした。

けれど、言葉が出ない。

喉の奥で、何かがつかえている。

“離れろ”“触れるな”──怜央菜の囁きが、まるで呪いのように蘇る。


「遥、なぁ、俺に言えよ。何があったんだ」


「……やめて」


「やめてって、何を――」


「……お願いだから、もう、やめて」


声が震えていた。

日下部の手が、宙で止まる。

ほんの数センチ、遥の肩に触れそうな距離。

だが、その手は結局、空を掴んだまま下りていく。


風が吹き抜けた。

校門の向こうから、誰かが名前を呼ぶ声。

遥はその声に背中を押されるように、一歩後ろへ下がった。


「ごめん……俺、行くから」


その言葉を残して、遥は足早に校舎へ向かう。

背後で、日下部が何かを言おうとした気配があった。

けれど、もう聞こえなかった。


廊下の窓をすれ違う風が、首筋をかすめる。

その一瞬、昨夜の夢の感触がよみがえる。


“俺がいるから”


――あの声さえも、もう信じてはいけない気がした。


無名の灯 恋愛編2

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