ベルッティが木板にインクを塗ると、隣の奴隷がそれを紙に押しつける。
丁寧に剥がして、またベルッティがインクを塗る。
小さな手と顔がインクで汚れても、誰も気にも止めない。
拭き取る暇もないのだ。
現在、アーカード総合印刷所は手の空いている奴隷のすべてを動員して新聞を刷っている。
刷れば刷っただけ売れるからだ。やらない手はない。
待遇だって、悪くはない。
奴隷達はこれまでにない新しい作業に興味津々だし、食事の質だってよくなった。
ただ、働いて食って寝る。
それだけで満足できるなら、十分に幸福な環境と言えた。
「くそ、いつまでやるんだこれ」
だが、ベルッティには野心がある。
功を成して、金を稼いで、いつか自由の身になる。
それがベルッティの生きる目的だった。
バルメロイの取材を終えてから、ベルッティの記事は急に通らなくなった。
それどころか、取材すらさせてもらえないのだ。
おそらくは降格させられたのだろう。
悔しい。
震えるほどに悔しい。
おれは何の為に文字を覚えた。
何の為に話し方を学んだ。
何の為に本を読み、知恵を巡らせてきた。
木板にインクを塗る為か?
こんなことで自由になれるとはとても思えない。
「おい、手が止まってるぞ」
「あ、ああ。ごめん」
忙しない日々は考える時間すら奪っていく。
ベルッティはただひたすらに木板にインクを塗り続けた。
「アーカードさん。これではベルッティがあんまりです」
書斎でルーニーがオレに抗議していた。
クク、抗議? 抗議か。
奴隷が、オレに? 面白いこともあったものだ。
少年はまっすぐにオレを見ている。
正義は我にありといった顔だ。
実にくだらない。
視線を外し、窓辺を眺めながら、オレは言う。
「ルーニー。お前はベルッティのことを考えたことがあるのか?」
ルーニーが言葉に詰まる。
意味がわからないといった顔だ
考えているから、こうして抗議しているのに。
とでも言いたいのだろう。
黙っているだけよしとしておくか。
「ベルッティをこれまで通りに運用した場合。どうなると思う?」
ルーニーが考える。
これまで通り、すべてがこれまで通りだったら。
「ベルッティは野心を燃やして、アーカードさんに尽くします」
そんなことは当然だ。いちいち口にするな。
「……バルメロイの脅迫の件なら、無視すればいいんです。もし、ベルッティが貶(おとし)められても、その性能は変わりません。これまで通り、金を稼いで」
そこまで言って、ルーニーの息が詰まる。
オレの視線が刺さったのだ。
「いいか、覚えておけ」
「オレたちは今、情報や力を利用して金を稼いでいる」
どうやら、言わなければならんらしい。
面倒だが教えてやる。
「これまでは利用する側だったが、これからは違う。利用されることも考えろ」
「バルメロイにベルッティを利用された場合、どのような危険がある?」
記事を捻じ曲げることも、特定の記事を書かせることも、事件そのものを捏造することもできるし。
内部事情が筒抜けになれば、オレ達が集めた情報をバルメロイは容易に入手できるようになる。
今後、オレ達がどんな情報を掴むかもわからん。
盗まれた情報によっては帝都がひっくり返るやもしれんぞ。
「それは……ベルッティが裏切ったらの話です!」
「ああ、そうだな。ベルッティが裏切る訳がない。そうさ、信じているとも」
白々しく前置きして、退屈に理を詰めていく。
「では、ベルッティが裏切らなかったらどうなる?」
その場合は当然、バルメロイはベルッティの過去を明かすだろう。
バルメロイからすればただの嫌がらせだが、ベルッティにとっては致命傷だ。
取材で街を歩く度、慰み者になった性奴隷だと哀れまれ、男からは好色の目で見られる。当然、蔑む者もいるだろう。
気力で耐えればいいとか、そういう次元の話をしているんじゃあない。
帝都の治安の悪さを舐めるなよ。
醜聞が広まり切るまでもつものか。
そんな噂が立てば、ベルッティはどこぞの強姦魔にさらわれ、遊び尽くされた後殺されるだろうよ。
また一緒に取材したいだぁ? さらってくれと言ってるようなものだ。
そうなれば。
そんな事態になれば、できることは一つだ。
「人目が多く、安全な、印刷所で働かせる。ですか?」
長かった、実に長かった。
なぜこんな当然のことを説明しなければならないのか。
「そうだ。そして、どうせそうなるのなら早い段階で印刷所にぶち込んでおいた方が安全だ。バルメロイがどのタイミングで過去をばらすかわからんし、もうばらされているかもしれん」
やりたいことができなくて辛いだと?
バカバカしい、冗談も大概にしろ。
死んだらすべて終わりだろうが!!
「ルーニー。お前はオレにみすみす奴隷を殺させるつもりなのか?」
「思慮が至らず、申し訳ありませんでした」
頭を下げた少年は押し黙り、悔しがった。
何かできることがあったのではと考えているのだろう。
諦めろ。
ベルッティの未来は応接室で潰えた。
人生は平等ではないのだ。
いきなり未来が潰えることなど、いくらでもある。
オレはルーニーを下がらせて、書類仕事に戻る。
ペン先がかすかに揺れていた。
どうやら、怒りで手がつかんらしい。
ああ、忌々しい!
あのバルメロイとかいうジジイめ、オレの奴隷の価値を下げやがって!!
ベルッティはこれからだったというのに。
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