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そうしているうちに、スピーチの時間が来た。
「では行ってくるよ」
と私に一言残すと、聡一朗さんはスタッフの方に連れて行かれた。
こんな大勢の人の前で話すなんて……私は想像しただけで尻込みしちゃうけれども、聡一朗さんには緊張など微塵もした様子はない。
それは態度にも溢れていて、聡一朗さんは見事なスピーチを行って、会場は拍手喝采となった。
そばで聞いていた私も、自分のことのように誇らしい気持ちになった。
聡一朗さんって、本当にすごい方なんだな。
今になってシャンパンが効いてきたためか、拍手が割れんばかりに耳に響いて頭がぼーっとなったせいか――なんだか、壇上に立っている聡一朗さんがすごく遠く感じた。
『聡一朗先生は世界を舞台にこれからますますのご活躍を――』
進行役の人の言葉が、ぐわんぐわんと頭に響く。
そうだ。聡一朗さんは世界で活躍する人だ。
私はそんな聡一朗さんを支える立派な妻にならないと。
と、手にしていたシャンパングラスをぐいと飲む。
……でも、なんの取り柄もない、大学すら通えていない私が、どうすれば聡一朗さんに見合う女性になれるだろうか……。
意識がふわふわしてきて、なんだか堪らなく心許ない気持ちになった。
そうして無意識にシャンパングラスに口を付ける。
聡一朗さんはそれからも大勢の人に囲まれていて、私のもとに戻る余裕がなさそうだった。
談笑している聡一朗さんを見守っていると、どこからか声が聞こえてきた。
「やれやれ、今を時めくとはこのことだな。青二才がいい気なものだ」
ドキっとさせられるような、嫌な声色だった。
「しかも、今日連れて来た嫁を見たか?」
「ああ、まだ子どもじゃないか」
「堅物に見せておいて意外に幼稚趣味だったと見える」
嘲笑を交えて話すのは聡一朗さんのことに違いなかった。
ズキズキと嫌な胸の高鳴りを覚える。
しかも私のことまで話題にしている。
聞かない方がいい、と思っても、つい耳をそばだててしまう。
「まだ大学も出ていないんだろう」
「うちの特別コースに通っているらしいぞ」
「特別コース? 正規じゃないのか?」
「ああ、なんでも清掃員だったらしいぞ」
「ひえ。なんでまたそんなのを」
同じ大学で、恐らく同じ教授陣の人たちなのだろう。
学問の世界は意外に厳しく、どの分野も熾烈なライバル争いがあるとは聞いていたけれども、こういう嫉妬じみた揶揄は聞きたくない。
特に、私のせいで聡一朗さんが悪く言われるのは堪らなかった。
居た堪れなくなって、私はその場から離れた。
突然、それまで親しく会話した人たちが笑顔の仮面を被っているように見えた。
みんな本心では聡一朗さんを妬み、そして私を嘲笑っているのではないか――そんな気がしてきて、息が詰まった。
私は聡一朗さんには釣り合わない。
そんなこと聡一朗さんだって十分解かっている。
私の経歴や若さでなにか言われることは聡一朗さんだって解かっていたはず。
なのに、どうして私なんかを選んだんだろう。
『君を愛することはない』
聡一朗さんの言葉が、ずきりと胸を刺した。
私が聡一朗さんの妻で、本当にいいのだろうか。
「お疲れ様です」
酸素を求めるように廊下に出ると、不意に声を掛けられた。
若い男性の院生の方だった。
「聡一朗先生の奥様ですよね?」
「え、ええ」
「初めまして! お会いできて光栄です」
と自己紹介をしてくれた彼の顔にうっすら見覚えがあった。
聡一朗さんのもとで学ばれている方だったからだ。
こんな若い人も今日の祝賀会に招待されているんだな、と訝しがっていたら、彼はそれを察したかのように、
「俺は手伝いで来ているんですよ。お金をかけて華やかに見せていますけどね、雑務を内輪の学生たちにタダ働きさせて経費節減しているんだから、せこいもんですよ」
と言って、「でもその代わり、今日の料理と酒は食べ飲み放題なのでチャラです」と少し下品に笑う。
そうとう酔っているみたいだ。
お酒臭いし、酔っている人ならではの危うい雰囲気がする。
あまり長々と話していたくないな、と思っていると、
「そう言えば、僕、ずっと気になっていることがあって、奥様にお会いできたのをこれ幸いに、ぜひ訊きたかったんですけど」
「はぁ、なんでしょう……?」
私が警戒感をにじませて応じると、院生はニヤリと嫌な笑みを浮かべた。
「あなたと先生って、本当に恋愛結婚ですか」
「え?」
「みーんな噂しているんですよ、本当は契約結婚なんじゃないかって。だってあの冷徹教授が妻だなんて。しかもあなたみたいな小娘を」
「……」
「あの手の男は一生独り身で寂しく年老いて頑固な老害にでもなるのが成れの果てでしょ?」
恩師になんてこと言うんだろう、と不快に思ったけれども、契約結婚が密かに噂されているなんて、とそのことの方がショックだった。
動揺したらこの人に噂が本当だと悟られてしまう――そう懸念して、なんとも思っていないような表情を作っていると、院生はさらに暴言を続けた。
「あの男は利害でしかものを見ない冷徹な奴なんですよ。研究にも俺たちにもそうだから解かります。だから、あなたのこともきっとそうだ。若い女の子の未来を横暴に搾取してなんとも思っていないんだ」
「そんなこと……主人はそんな人ではありません」
否定する私に、男は赤ら顔に馬鹿にするような表情を浮かべて笑った。
「健気だなぁ、騙されているのも知らないで。目を覚ましたらどうだ? どうせ利用されているだけだろ。あと何年かして、他に若くて可愛い子を見つけたら、あんたなんてすぐにポイだよ」
「……!」
「そうなる前に、存分にあいつの立場と金を利用して遊べよ? あんたのような若くて可愛い女の子は、それに釣り合う男と付き合った方がいい」
意味深な声色になると、男が私ににじり寄って来た。
「な、なんですか」
「どうせ形ばかりの結婚生活なんだ。夜の生活の方までは契約していないだろう?」
急に腕をつかまれ、ぞわりと嫌悪感が全身を走った。
「それともそっちも込みの契約だとか? だとしても、あの男じゃ刺激的とは言い難いだろ?」
「離して……!」
「清純ぶるなよ。若い男とのアバンチュールで欲求不満を晴らしたらどうだ、って言ってやってるんだよ」
「いや……!」
コメント
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最低な院生だ!聡一朗さん、早く見つけてください。そしてはっきり言ってください。誤解したままなんて悲しい😭