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第5話:祖父の記憶
ミナトが祖父の書斎に入ったのは、6歳の頃だった。
天井まで届く木製の本棚。窓辺には小さな観葉植物。
机の上にはインク壺と、古びた万年筆。
空気の中に、ほんのかすかにインクの匂いが漂っていた。
フジモト・カイ――かつて「言葉の職人」と呼ばれた詩人。
灰色の短髪、細身の体、シワの刻まれた穏やかな笑顔。
背筋はいつもまっすぐで、声は低く、柔らかかった。
「ミナト、今日も詩を書くかい?」
あの日、祖父はそう言って、ミナトの手にノートを渡した。
ミナトは書くのが好きだった。
意味のない言葉でも、線を描くようにして文字にするだけで、自分だけの何かを感じていた。
だが、そのころ社会ではすでに「詩人」という職業は“非効率”とされ、
祖父は“創作評価スコア 32”で登録されていた。
「社会に貢献しない表現者は、存在しなくてよい」
そう判断したのはAIだった。
彼は筆を折られた。
公的活動も、出版も、発言の場も奪われた。
それでも祖父は、筆を置かなかった。
「AIに理解される必要はない」
祖父は静かに言った。
「この手は、お前の心に届けば、それでいい」
彼が最後に見せてくれた詩が、今もミナトの脳裏に残っている。
> 「咲かぬ花は、
> 咲いてはいけないのではなく、
> 咲く時間を、まだ知らないだけ。」
そのとき、幼いミナトはまだ詩の意味がわかっていなかった。
ただ、その言葉が心の奥にそっと火を灯したことだけは覚えている。
それから10年。
祖父は静かに亡くなった。
死亡理由は「自宅療養中の機能停止」。公的には、ひとつの統計数字にすぎなかった。
彼の葬儀は簡素だった。
“社会的に価値のない市民”には、豪華なセレモニーも許可されなかった。
そして今。
ミナトは、祖父の詩がしまわれていた木箱を取り出す。
その中にはもうひとつ、誰にも見せられなかったノートが入っていた。
ページをめくると、最後に書かれていた言葉が目に入った。
> 「人間の証とは、感情だ。
> 伝えようとすることだ。
> 言葉にできないものを、言葉にしようとすることだ。」
ミナトの手が震える。
彼は今、この社会で“最も無駄”とされることをしようとしている。
でもそれは、祖父から受け取った、たったひとつの“人間らしさ”だった。
その夜。
ミナトはノートを開いた。
窓の外は灰色の都市。AIが制御する安全な未来。
彼のペン先は、静かに走る。
> 「この未来は、正しいのか?
> 正しさを信じるほどに、心は音を失っていく。」