その夜、綾子は少し気分が落ちていた。無理して職場で人と関わったせいだろうか?
今日みたいに気を遣った日は精神的疲労から気分がズーンと落ちる。
理人がいなくなってから鬱気味だった綾子は、時折こうしてどうしようもない不安感に苛まれる。
理人が亡くなって以降、綾子は友達付き合いから親戚付き合いまで一切しなくなっていた。
家族以外で唯一交流があるのは叔母のたまきくらいだ。だからこんな不安に襲われた夜には話したくても話す相手もいない。
そんな時の為に綾子はネットのお喋りサイトへ登録していた。
お喋りサイトと言ってもチャットやマッチングアプリとは違いただ普通にメール交換をするサイトだ。
男女を問わず文通のようにやり取りできるこのサイトを綾子は雑誌で知った。
昔はこういうサイトも数多くあったらしいが今は出会いを目的としたものばかりになっている。
そこでエンジニアだったこのサイトの主催者が、出会いを目的としない純粋な交流サイトを作ろうと立ち上げたらしい。
サイト名は【月夜のおしゃべり】
会話の手段はメールのみ。メールアドレスもサイトを通して暗号化されるので相手に個人情報が知られる事はない。
もちろんニックネームで呼び合うので名前も匿名で利用料金も無料。サイトの収益は広告料から賄っているようだ。
純粋にお喋りを目的としたサイトだが時折出会い目的でメールを送って来る人もいる。
しかしメールは無視するか、気に入らない場合はブロックや管理主に報告という手段もあるのでお手軽だ。
メールをもらうにはプロフィールを作成する必要がある。
綾子が作成したプロフィールは次のようなものだ。
ペンネーム・エンジェル
性別・女性
年齢・32歳
住まい・長野県
結婚歴・バツイチ
職業・パート
趣味・読書(好きな作家は神楽坂仁)、美術鑑賞
メール相手の性別・男女どちらでも
一言メッセージ・質問:「生きるとはどういう事ですか?」
一言メッセージには自己紹介や趣味の事を書く人が多いが綾子はあえてこうしている。
綾子は別に同じ趣味の友達が欲しいという訳ではない。ただしんどい時に気を紛らわす話す相手が欲しいだけだ。
まあこんなプロフィールなのでいまだにメールフレンドは一人もいない。
それでも女性というだけでメールは結構来る。この日も新規のメールが三通届いていたので早速見てみる。
【はじめましてタロウです。神楽坂仁僕も好きですよ。で、質問についてですが、うーん、生きる事に関する僕の答えはこうかな。『生きるとは幸せになる事です。なぜなら、あなたは幸せになる為に生まれてきたのですから』こんな感じでどうでしょうか? よろしかったらメール交換しませんか?】
綾子は目を通してため息をつく。そしてすぐにメッセージを削除した。
それから次のメッセージを開く。
【榊と申します。何か悩んでおられますか? あなたの質問に対する私の答えはこうかな? 生きるとは世の中の為、人々の為になる事を何か一つでも成し遂げる事。これに尽きますね。私は悩んでいる人を対象にセミナーを開いていますのでよろしかったら今度いらっしゃいませんか? 是非お返事下さい!】
綾子はうんざりした顔をしてメールを削除する。最近はこういった自己啓発系のセミナーの誘いも多い。
大きなため息をつきながら最後の一通を見てみる。
【こんばんは雅也です! 生きるっていうのはさぁ、難しい事は考えずに楽しめばいいんですよ。先の事は考えずに今を精一杯楽しみましょう! 僕ならきっとあなたを満足させられますよ♡ 今度お会いしませんか?】
綾子はしかめっ面をするとメッセージを即削除した。やはり出会い目的のものが増えている。
話しが出来るなら女性でもいいのに女性からのメッセージは皆無だ。ここへ登録している女性達は男性との出会いを求めて登録しているのだろうか? もしくは特定の趣味を表示しないとメールは来ないのか?
結局今日もメールフレンドは見つからなかった。
綾子は深いため息をつくと【月夜のお喋り】を閉じてパソコンの電源を消した。
ソファーへ移動した綾子は最近始めたばかりの刺繍を手にする。
手芸は元々好きだったが理人が亡くなってからはすっかりやらなくなった。
昔は理人のリュックやおもちゃ作りにはまり、理人が昼寝をしている間にミシンに向かった。しかしそのミシンも今はしまったままだ。
先日ショッピングセンターへ行った時手芸店でこの刺繍キットを見つけた。
刺繍の土台は紺色の布で水色の服を着た三人の天使がラッパを吹いている『天使の合奏』という名前のキットだった。
刺繍には赤いフレームもセットになっていて仕上がったらそれに入れて飾る予定だ。紺色と赤色の組み合わせが新鮮だ。こういった濃い色の組み合わせの刺繍キットはなかなかない。
綾子は虫の音を聞きながら刺繍を始めた。
一針一針丁寧に仕上げていく。いつもは刺繍に夢中になっていると何もかも忘れられるのだが今夜はどうも様子が違う。
中途半端に職場で人と関わってしまったせいだろうか?
次第に綾子の視界が滲んできた。針を刺す位置がぼやけて見えない。次の瞬間綾子の瞳からは涙がぽろぽろとこぼれ落ちてきた。
愛しい人はもういない。あの小さくてあたたかな身体、甘い香りのする髪、信頼を込めて差し出された愛らしい手、綾子が抱いていると肩にもたれて眠ってしまった時の天使のような小さな息……それらを二度と感じる事が出来ないのだと思うと辛くて切なくて胸が痛くなる。綾子はたまらなくなり理人が大切にしていたクマのぬいぐるみをギュッと抱きしめた。
秋という季節はどこか物悲しいせいか愛しい我が子を思い出してしまう切ない季節だ。
辛い秋を乗り越えればやがて冬になり雪が全てをかき消してくれるのだろうか?
そんな事をぼんやりと考えながら綾子はただひたすら泣き続けた。
コメント
5件
↓↓冒頭のアプリのやり取り....同じく、そう思いました。🤔 これから綾子さんと どのようにして出逢い、関わっていくのか⁉️楽しみです🍀✨
ノルノルさん!私もそう思いました!それも初めの3件の答えに対しての「……」これは綾子さんでしょう。下線の下からの 『そうだな…息(breathを繰り返す事かな?)』 これ!神楽坂さん!仁さん!もううるうる🥺 これからどのように2人は出逢い、仁さんはどんな言葉を紡いで綾子さんがドアにかけた何重もの鍵を一つずつ開錠していくのか。 開けられるのはこの返事をした仁さんしかいない…🥺
突然の事故で愛息理人君を亡くして突然長く凍てつく冬を迎えてしまった綾子さん。 人恋しくなると思い出し咽び泣きの繰り返しなのかも😭⁉️だから人と関わらなくなったのかな⁉️ 冒頭のメッセージはこのアプリでのやり取り?? もしかしたら冒頭のメッセージは神楽坂氏から?