(近づけたくないって、なんなんだよ)
意味がわからない。功基はグッと眉根を寄せた。
そんなに『箱入り主人』にしたいのかと、微かな苛立ちも感じる。
(……オレのほう、全然見ねーくせに)
矛盾しているのはわかっている。けれども最初の一度以降、こちらは壁だとでもいうように一瞥することもなく、お嬢様方に敬々しく接し続ける邦和の姿に、功基は内心苛々としていた。
それに加えて、だ。
功基は衝動のまま机上の隅に置かれたアンケート用紙とペンをとり、白欄に文字を綴り始めた。
全てを書き終えてから、黙って見守っていた昴へと差し出す。
「……南条様?」
「オレの連絡先です。これなら和哉を通さずに、連絡をもらえます」
「……本当に、よろしいのですか?」
「はい。……好きなモノを好きに話せる相手がいない寂しさは、オレにもよくわかるので」
そしてまた、話せる相手が見つかった時の喜びもよくわかる。脳裏に浮かんだのは、真剣に話を聞いてくれた邦和の顔だ。
無意識のうちに下がっていた視界に、そっと伸ばされた指先が現れた。功基の手から、白い用紙を掴んでいく。
少し遅れて視線を上げると、昴は上体を伸ばし、功基と同じようにアンケート用紙を一枚つまみ出した。眼前に転がるペンを拾い上げると、一度功基に柔らかな笑みを向け、コツコツとペンを走らせる。
書き終えたと同時に用紙を机上でくるりと回し、功基の目の前へ静かに滑らせた。
「私の連絡先になります。業務用ではなく、個人の」
「えっ」
「遠慮はいりません。何でもご連絡ください。ああ、ただ」
昴はそっと、唇に人差し指を添えた。
「こうした個人的な連絡先のやり取りは禁止事項ですので、どうかご内密に」
「っ、はい」
小声で頷き、慌てて用紙を鞄に突っ込む。秘密事を抱えてしまったという緊張感なのか、おそらく一番規則を準ずべき立場であろう昴に破らせてしまったという背徳感からか、心臓が妙に高鳴っていた。
本来は『お得意様』の座る席のためか、他の席とは違い、天蓋席毎に専属執事がつくらしい。功基の担当は言わずもがな昴のようで、時折席を外す事もあったが、殆どは功基の側に控えていた。
昴の知識は功基よりも豊富で、アフタヌーンティーを提供する店舗にも数多く足を運んでいた。功基が目をつけている場所にも複数訪れており、感想話しに花を咲かせているうちに、あっと言う間に二時間が経過していた。
店舗の席は二時間ごとの入れ替えである。邦和のシフトはもう二時間残っているので、試食が終わったら先に帰っていると事前に伝えていた。
今回の会計はない。鞄を抱えてホールへと踏み出すと、邦和は丁度キッチンに下がっているようで、フロアにその姿はなかった。
(……まぁ、見ればわかるか)
どうせ帰ってくれば、また会うことになるんだ。念のため、『先に帰っている』と一言メールを入れておけばいい。
ギュウ、と締め付けられた胸から無理やり意識を逸し、昴について真紅のカーペットを進んでいく。
長い廊下を進み、外へと繋がる扉の前で昴が足を止めた。
「本当に楽しいひと時でした。終わってしまうのが、もどかしいくらいに」
もしかしたら、昴は自身の容姿が与える効力を理解していないのかもしれない。
そう考えてしまう程に真っ直ぐと色香の漂う瞳を向けられ、功基はどぎまぎと視線を逸らした。
「……オレも楽しかったです。これだけ話せる相手は、周りにいないので」
「和哉は勉強熱心ですが、私とは年季が違いますからね」
昴がニコリと微笑む。頭上に飾られたシャンデリアに負けない輝きだった。
「またお会いできる日を、心待ちにしております」
***
寄り道もせずに帰ってきた功基のスマートフォンが鳴ったのは、事前に聞いていた邦和の上がり時間から十分程が経った時だった。
『今から店を出ます』
スライドの必要もない簡素なメッセージが画面に表示され、目だけで確認した功基は再び手を動かした。
功基はいま、台所にいる。邦和が来てからすっかり我が物顔で陣取られているこの場に立ち、包丁を持つのは久しぶりだ。
炒めた具材に適量の水を注ぎ、沸騰したら灰汁をとり更に弱火で煮込む。根菜が柔らかくなったら火を止めてルーを入れ、かき混ぜながら溶かし、最後に弱火で仕上げれば完成。
出来上がったカレーを前に、功基は満足気に腰に手を当てた。
「うし、出来た」
調度良く炊きあがったご飯に口角が上がる。時刻は午後二十時を回った所。さすがに邦和も腹が減っているだろうし、偶には労ってやろうと思い立った次第だ。
けして気を引こうとか、そんなことは考えていない。
(これは、いわば感謝を込めた『ご褒美』だ)
小学生でも作れるカレーが『ご褒美』とは自身でも思い上がり甚だしいとは思うが、外の食事へ連れて行くのでは駄目だったし、ならばこうしてクタクタで帰宅した時に、食事があれば嬉しいのではないか。それも、功基自身が作ったとなれば手放しで喜んでくれるのではないかと、妙な自信があった。
たぶんそれは、邦和の功基に対する執着っぷりを肌で感じていたからで、だからこそ功基はそれ意外の可能性など微塵も考えずに、邦和に貰った子犬(黒)をモフモフとしながら、邦和の喜ぶ顔に思いを馳せていた。
帰宅した邦和を出迎えると、不機嫌そうに鼻の頭に皺を刻んでいた。
「お、おつかれ……」
「……お邪魔いたします」
心なしか声も常より数段低い。漂うどす黒いオーラに圧倒されながら先を促すと、邦和はコンロの前でふと足を止めた。
「……カレー? どうされたんですか、これ」
「あーいや、お前も疲れてるかなって思って、夕飯、用意しといたんだよ。いつも作ってもらってばっかだしな」
照れくささに頬を掻いた功基を、邦和が勢い良く振り返る。
限界まで双眸を見開き、妖怪でも見たかのようにマジマジと観察され、功基は居心地悪くなりその腕を押した。
「っ! でっかいんだから! いつまでも突っ立ってんな!」
「……功基さんが、料理を? っ、お怪我は!?」
邦和が焦り顔で功基の両手を取る。
「お前、オレが包丁使えねーと思ってたのか。人並みには使えるわ」
馬鹿にすんなと言ったとたん、邦和に両手を握られているという現状に功基ははたと気がついた。
(っ、やべ)
そう、手を引こうとすると、覆っていた邦和の指先にグッと力が込められた。
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