第一章:的外れな一撃とゴブリンの消滅
アスファルトに叩きつけられる瞬間、世界はスローモーションになった。
「あ、死ぬんだ……」
佐倉悠真は、そうぼんやりと思った。小柄で、分厚いレンズのメガネをかけた高校生。彼にとって、学校は地獄だった。いつもビクビクとお気に入りのシャツの袖を引っ張りながら生きている、典型的ないじめられっ子。今日も同級生たちに囲まれた恐怖から逃げようと、車通りの激しい路地に飛び出したのが運の尽きだった。
(これで、いじめも、苦しみも、全部終わるのかな)
最後に見たのは、自分の血と、驚愕の表情を浮かべる運転手の顔。そして、プツンと意識は途絶えた。
次に目覚めた時、悠真は森の中にいた。
木々の枝葉から漏れる光は、どこか青みがかって幻想的だった。全身に痛みはない。メガネも無事だ。何が起きたのか全く理解できないまま、悠真はただただ震えていた。
「ゆ、夢?」
その時、ガサガサと茂みが揺れ、異形が現れた。
全身緑色の肌、鋭い牙、手に持った粗末な棍棒。ゲームで見たことがあるような姿だ。
ゴブリン。
悠真は、一瞬で悟った。ここは異世界だ。そして、目の前の存在は、きっとこの世界では最底辺の雑魚なのだろう。だが、それはファンタジー小説の中の話だ。**現実(異世界)**の強大なモンスターと、非力ないじめられっ子が相対している。
「ひ、ひぃぃ……!」
足がすくみ、逃げることもできない。ゴブリンは悠真の非力さに気付き、下卑た笑いを浮かべながら棍棒を振り上げた。
(死ぬ!また、死ぬんだ!)
恐怖が頂点に達した瞬間、悠真は目を強く閉じ、反射的に右手でパンチを繰り出した。
――ドォン!
……しかし、悠真が放ったパンチは、ゴブリンの遥か左斜め上に、およそ攻撃とは呼べないほどタイミングがズレて空を斬った。
「え?」
悠真は、パンチが外れたことに呆然とした。ゴブリンも、目の前の非力な人間が放った情けない空振りに、棍棒を止めてキョトンとしている。
だが、次の瞬間、異変が起きた。
悠真がパンチを放った**「空振り」によって、目に見えない、まるで超低速のスローモーションの空気の塊**が、ゴブリンの身体をかすめたのだ。
ゴブリンは、特に衝撃を受けた様子もなく、ただ「ん?」と首を傾げた。そして、そのまま、まるで砂でできた像のように、静かに、塵となって風に消えていった。
悠真は、その光景を呆然と見つめた。
「……え、嘘でしょ?」
彼が放ったのは、ただの的外れな空振りパンチだ。それが、目の前の強敵(らしきもの)を、触れることなく消滅させた?
(僕、パンチ外したよね? なのに、敵が……)
ゴブリンがいた場所には、悠真の「弱々しいパンチの勢い」によって生み出された、微かな土煙が残るだけだった。
「……なんか、この世界の敵、めちゃくちゃ弱すぎない?」
いじめられっ子の僕が転生したら、どうやら世界は、僕の「ズレた動き」一つで滅んでしまうほど、脆弱だったらしい。悠真の、自覚なき最強ライフは、こうして不本意な形で幕を開けたのだった。