都心のビルの間を歩いて行くと、店に到着した。
真っ白な漆喰の塀に囲まれた店の前には、オリーブの木が植えられている。入口を入ると、足元には枕木が敷き詰められていた。
枕木の小道を進んで階段を降りると、レストランのドアが現れる。建物越しには、水辺が見えた。
「えっ? こんなビルの谷間に水辺があるの?」
栞が驚いていると、直也が答えた。
「そうだよ。なかなかいいでしょ?」
「あ! ここって、電車から見える……?」
「正解!」
「ここ、いつも電車から見て気になっていたから、嬉しい!」
「それはよかった」
「この水辺は川? それとも池?」
「江戸城の外濠らしいよ。まあ、今は運河みたいな感じかなぁ?」
「そうなんだ……」
栞は感心しながら頷く。
店に入ると、スタッフが二人を出迎えた。
「いらっしゃいませ! お二人様ですね。室内のお席とテラス席、どちらになさいますか?」
春の穏やかな気候だったので、直也は迷わずテラス席を選んだ。
テラスへ向かう途中、栞が尋ねた。
「外で食べられるの?」
「うん。今の時期は、外の席が人気らしいよ」
「わぁ、楽しみ!」
栞は心を躍らせながら、直也の後をついていった。
外に出ると、何組かのカップルがすでに食事を楽しんでいた。
テラス席の目の前には、水辺が迫っていた。
都会の真ん中にこんな場所があるなんて、栞は信じられない気持ちでいっぱいだった。
テラスの周りには、柔らかなライトがいくつも灯り、その明かりに照らされ水面がキラキラと輝いていた。
そびえ立つ高層ビルの明かりが水面に反射し、とても幻想的な光景を醸し出している。
水辺の脇にある遊歩道沿いには、桜並木もあった。桜が満開の季節には、さらに美しい光景を目にすることができるだろう。
二人は、奥の水辺に近いテーブルへ案内された。
席に着くと、栞が尋ねた。
「先生は、どうしてこんな素敵なレストランを知っているのですか?」
栞は、レストランに入ってからずっと気になっていたことを、思い切って聞いてみた。
もしかしたら、直也は以前誰かを連れてここに来たことがあるのかもしれない……そう思ったからだ。
そんな栞の意図をお見通しの直也は、ニヤリと笑いながらこう答えた。
「大学病院の忘年会が毎年ここであるんだよ。冬だからいつも店内の席だけど、一度テラスで食べてみたいなーって思ってさ」
その答えに、栞は拍子抜けしてしまう。
(なんだ、デートで来たわけじゃないんだ)
栞は急に元気を取り戻す。
「父にこのお店を教えてもいいですか?」
「いいけど、どうして?」
「園田さんとのデートにピッタリかなぁと思って」
「お! なるほどね!」
直也はにっこりと笑った。
「うちの父、美味しいお店はたくさん知っているんですが、接待で使うようなところばっかりで。だから、こういう素敵なお店も教えてあげないと!」
「ハハッ、そっか。お父さんと園田さんのデートは、今度の土日あたり?」
「はい、日曜日です。もう、娘の私の方がドキドキしてます」
「なんだか僕までドキドキしてきたよ」
二人は同時に声を上げて笑った。
そこへ店のスタッフが注文を聞きに来たので、直也はオイルベースのナポリ風魚貝のパスタを、栞はズワイ蟹のトマトクリームソースパスタを頼んだ。
さらに直也は、ニース風サラダ、ヤリイカのグリルアンチョビソース、生ハムとサラミの盛り合わせも頼んでくれた。
飲み物は、二人ともノンアルコールワインにした。
ワインと前菜が運ばれてくると、さっそく二人は乾杯した。
「先生はお酒強いんですか?」
「普通かなぁ。普段はほとんど飲まないけどね」
「それは、お医者様だから?」
「そう。急な呼び出しがくることもあるからね」
「精神科でも?」
「もちろん」
「そうなんだ……」
頷きながら、栞はワインを一口飲んだ。
直也のクリニックでの仕事ぶりは知っていたが、大学病院での仕事について、栞はほとんど何も知らない。
そこで彼女は、以前から気になっていたことを直也に聞いてみることにした。
「先生は、なんでお医者様になろうと思ったんですか?」
「うーん、まあ環境かなぁ? 親が医者だったし、兄貴も医学部に行ってたし。だから、それでなんとなくっていうのはあったかなあ?」
「じゃあ、なぜ精神科を選んだのですか?」
「血を見るのが苦手だったから!」
思いがけない答えに、栞は思わずきょとんとした。
「___というのは冗談だけど、実は僕が中学生の時、同級生が飛び降り自殺をしてね」
「え?」
「そいつ、家庭環境が複雑で、クラスでもいじめられてて、その時何もしてやれなかったんだ。で、そいつの死をきっかけにいろいろ考えるようになって、自分なりに調べたんだよ。日本のいじめの実態とか、自殺者数とか……そこでなんか危機感を感じちゃってさ。それで精神科医を目指したんだ」
直也の話を聞いて、やはり彼はそれなりの理由があって精神科医を目指したのだなと栞は思った。
「そうだったんですね」
「うん。いつまでたっても減らない日本のいじめは、ほんと異常だよな。豊かなはずのこの日本で、どうして心の優しい人たちが追い詰められて命を落とさなきゃいけないんだ? 絶対にこのままでいいはずがない。だから、なんとかしないとって、いつも思ってる」
栞も同じ気持ちだったので、深く頷いた。
「やはり、いじめが理由で受診される方が多いのですか?」
「うん、すごく多いよ。学生だけじゃなくて、社会人もね」
「そうなんだ……」
「真面目な人間が損をする世の中じゃダメだよね。だから、搾取する人間の行動を阻止して、搾取される側の人間を、なんとか逃がしてやらないと……」
直也の言葉には、重みがあった。
日々、患者と向き合い負の連鎖を断ち切ろうとする直也の姿勢には、頭が下がる思いだった。
栞は、日々頑張っている直也をなんとか励まそうとこう言った。
「先生に救われた人は多いと思います。私もその一人ですから」
その言葉に、直也は嬉しそうに微笑む。
「ありがとう!」
その時、料理が運ばれてきたので、二人は食事を始めた。
茹で卵や黒オリーブが入ったアンチョビ風味のサラダを、栞は「美味しい!」と喜びながら口に運ぶ。
笑顔で食事をする栞のことを、直也は愛おしそうに見つめていた。
食事中も、二人の話題は尽きることがなかった。
栞は一人暮らしを始めてからの出来事や大学生活について語り、親友の綾香や愛花、瑠衣についても直也に話した。
一方、直也も、趣味のサーフィンやバンドについて話してくれた。
サーフィンはいつも湘南で楽しみ、そこのサーフィン仲間数名とバンドを組んでいるらしい。
ボーカルの佐野(さの)をはじめ他のメンバーも今忙しい時期なので、なかなか活動を再開できないでいるが、余裕ができたらすぐに再開するつもりだと言った。
「先生も忙しいですよね? だから、テーマパークは、また先でも構わないので……」
「大丈夫だよ。そのくらいの余裕はあるさ」
「本当に?」
「うん。約束したことはちゃんと守るよ!」
直也はそう言うと、栞の頭をクシャクシャッと撫でた。
楽しい時間を過ごした二人は、レストランを出て再び三軒茶屋を目指した。
帰りの車内でも、楽しい会話は続いた。
その会話の中で、直也は来月後半に取材が入りそうだと言った。
取材に来るのは夜10時からの報道番組で、その特集コーナーで取り扱う『パワハラ問題』に関して、直也の意見を聞きにくると説明してくれた。
取材の話を続けているうちに、車は栞のマンション前に到着した。
栞はシートベルトを外しながら、直也に礼を言った。
「今日はありがとうございました。じゃあ次は火曜日に!」
「待ち合わせ等の詳細は、またメッセージで送るよ」
「わかりました」
栞は笑顔で返事をした。その瞬間、二人の視線が絡み合う。
直也は熱い視線を栞に注いでいる。
(あれ? 先生、なんかいつもと違う?)
栞がそう思った瞬間、直也の唇が栞の額に優しく触れた。
「あ……」
栞の口から、ため息のような小さな声が漏れる。それと同時に、直也の唇が離れていった。
ほんの一瞬の出来事だった。
「じゃあ、おやすみ!」
「お、おやすみなさい」
顔を真っ赤にした栞は、慌てて直也の車を降りた。
ドアを閉めて直也の方を見ると、彼は微笑みながら手を挙げ、その場から走り去っていった。
栞は、心臓の鼓動が高まるのを感じながら、その場に立ち尽くしたまま直也の車が去って行くのを見送った。
コメント
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もぉ〜ドキドキしちゃいますね💓
キャァー🤭💖デコちゅぅーーーーッ💗直也先生もドキトキ🤭
おでこにチュッ😘💏💕💕キャー(///ω///)ドキドキ.... 少しずつ距離を縮める二人♥️ 次のデートも楽しみです👩❤️👨🚙💕