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15 ◇引っ越そう
「昨日、淳子さん何を言ってきたの?」
「また来てほしいって、誘われたさ。勿論きっぱりと断ったよ。
するとあの日のことを君に話すと脅してきたんだ。
相当、金に困っているんだろう。
何としてでも金を引っ張りたいという欲丸出しなのが透けて見えるからね。
凄まじい執着心だよ、あれって。彼女ははっきり言って、異常だと思う」
匠平の話を聞きながら圭子は俯いて泣いていた。
そして『辛過ぎる』と言ったきり、だまって彼の話を聞いた。
「誓って言える。
最初から最後まで、そして今も、俺は微塵も彼女に対して下心を持ったことはない。
いきなり予想もしていなかったところをマッサージされて身体が暴走しただけ。
だけど、現実に君に嫌な想いをさせているのは事実だし、油断して結局は
彼女と身体の関係を持ってしまったのは、君に対して自分が悪いと思ってる。
だけど、許してほしい。
これからも子供と3人仲良く暮らしたいんだ。俺が愛しているのは圭子だけ。
浮気をしたわけじゃないけど、今後浮気のことを含め、同じようなことをしでかして
女性関係で君に不安を感じさせないよう努力する」
俺は精一杯圭子に自分の気持ちを伝えた。
「あなたの言うこと、信じる。
こんな酷い仕打ちをした淳子さんのことが憎いわ。とっても。許せない……」
「圭子、引っ越さないか」
「引っ越し?
そうだね。駅近でお店もたくさんあって、住みやすい今の住まいからどこかへ引っ越すのは辛いけど、
確かに考えてみる余地はあるわね。残念だけど……」
初めは淳子に誘われたにせよ、気持ちはともかく、もしかすると最後のさいご夫も彼女との性交に
喜びを感じたという可能性があったかもしれないと、危惧せずにはいられず、夫が自分に向けて
反省や今後の心持ちを話している間もなかなか気持ちが付いていかず、圭子の頭の中はグチャグチ
だった。
だが、最後に放った夫の一言が、圭子には意外でうれしいものだった。
夫が家族のためにと大枚をはたいて買った素敵な城を出て行こうとまで
言ってくれたのだ。
それは、この先今日聞いた話を忘れることができるのか、元のように夫と
向き合えるのか、それらは未知数だが、この先、夫の匠平との暮らしを
やり直してみようという気持ちにさせてくれる大きな一因になったことは確かだ。
16 ◇心を抉られる
――――匠平視点 ――――
妻に小泉淳子とのことを告白した日から1か月後、あのようなことがあったからといって、二人の間が今のままでいいはずはなく、意を決して夜に閨事を誘ってみようと、入浴を済ませ子供を寝かしつけてからの妻の様子見をしたあと、俺は先に寝室へと向かった。
そして照明の灯りの度合いを落とし、妻が部屋に入ってくるのをドア越しに
待った。
驚かせては元も子もないので、妻が部屋に入って来たタイミグでさっと近付ける
範疇で待つ。
恋人時代のように緊張が走る。
少し距離を取った位置から彼女に声を掛ける。
「圭子……」俺の呼びかけに視線を向けた彼女の肩に手を掛ける。
途端に困惑した彼女の表情が見てとれた。
その次に見えた光景で心を抉られる。
何と、圭子は片手で口元を抑え部屋から飛び出して行ったのだ。
圭子が向かった先は洗面所だった。
この時、圭子自身が一番驚くようなことが起きていたのだ。
なんと、圭子を襲ったもの、それは吐き気だった。
圭子が自身を落ち着かせて寝室に戻った時、匠平はベッドに腰掛け俯いていた。
次に顔を上げ圭子の顔を見上げた匠平の瞳には困惑の色が浮かんでいた。
「ごめんなさい……私」
部屋に戻って来た涙目の妻から謝罪される。
「俺のこと、まだ怒ってる? 許せない?」
俺の問いかけに妻は大きくかぶりを振る。
「そんなことない」
彼女の否定する言葉は、びっくりするくらい大きくて主張の強さを伴う
声のトーンだった。
「まだ、悲しいっていう気持ちは残ってるけど、許さないとかっていうのはないし、
あなたを嫌ったりもしてない。嫌いになれたらどんなに楽か。
好きだから苦しいの。でも、今はまだ無理みたい。
あなたのことを受け入れたいと思ってるのは、ほんと。
あなたからいつ誘われるだろうって、ドキドキして待ってたのよ?
私も早く元のようになりたいってずっとあの日から思ってる。
でも……ごめんなさい、今は駄目みたい」
「分かった。そんなに謝らないで。謝らなきゃいけないのは俺の方なんだし。
今夜のところは寝よう。おやすみ」
俺はいつものようにベッドの左側に潜り込む。
「おやすみなさい」
そして妻も続いて俺の隣に潜り込んだ。
17 ◇困惑
―― 圭子視点 ――
困ったことになったと、私は思った。
あの告白の日からも実家に泊まりで帰ったりしているから毎晩というわけでもないけれど、
夫とはぼ毎日のように一緒に寝ていて、違和感を感じることもなかったというのに。
でも、肩に手をかけられただけで今夜、私は吐き気を催してしまった。
今夜、誘われるという行為がトリガーとなってしまったかもしれない。
この先も夫から身体のどこかに触れられるだけで、またきっと私は嘔吐してしまうのでは
ないか、そんな恐怖に襲われる。これってどういうこと?
気持ちは許したいと思っていて、以前のような仲睦まじい二人に
戻りたいのに……。
◇ ◇ ◇ ◇
更に時間を経て夫から誘われた時のこと。
「あれからどう? 少しは気持ち落ち着いてきた?」
「待って。私の話を聞いてほしいの」
「いいよ、聞く……ょ?」
「あれからずっと自分の身体と気持ちに向き合ってきて、
分かったことがあるの。
淳子さんは、スマートで胸の大きさも申し分なく色っぽい身体を持っていて
顔だって美人さんで、そんな人をその目で見て官能をくすぐられ反応した
あなたにそして淳子さんに、私は劣等感でいっぱいなの。
もうとてもあなたと性交渉は持てない。
彼女と比べられるかと思うと自信がない」
「そんな……。比べたりなんかしないよ。
彼女、見た目は確かに美人かもしれないけど、俺には圭子のほうが
魅力的で比べようもない。嘘じゃない。
俺が愛してるのは君だけだよ、信じてほしい。
大丈夫、気長に待つよ。俺は大丈夫、待てるから」
「ごめんなさい……」
確かに自分に自信を無くしてしまったというのも本当なのだが……。
私には夫に伝えられないことが1つあった。
『あなたに身体を触られると吐き気がして、気持ちが悪くなるの』
という正直に吐き出してしまうと、夫婦関係が崩壊してしまうほどの
とても酷い言葉。
夫のことは、今も好きなのだ。
それなのに身体が真逆の反応をするから困る。