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翌朝。
晴子は一番日が当たるリビングのテレビ台の端に、昨日アレンジメントを置いた。
背面からジョーロの先を挿し込み、給水スポンジにたっぷりと水を染みこませる。
城咲の花材の手入れが良かったからだろう。2日目の今日も花たちは上手に水を吸い上げ、生き生きと咲き誇っている。
これなら手入れさえ怠らなければ、2週間ほどは楽しめそうだ。
晴子は微笑みながらアレンジメントを見下ろした。
「……あ」
城咲のことを考えていてすっかり忘れていた。
斎藤から聞いた話のことを、だ。
輝馬がどこで誰と恋愛しようがセックスしようが、母親である晴子が介入するのは間違っている。
しかしそれでも耳に入ったからには、真偽のほどを確かめなければならない。
晴子はダイニングのサイドボードに置いてあったスマートフォンを手にした。
「…………?」
思わず視線を上げる。
目の前には黒薔薇のプリザーブドフラワーがあった。
紫音と凌空は学校。健彦は会社だ。
誰もいるはずがない。
それでも誰かに見られているような気がした。
「……馬鹿ね。そんなわけないじゃない」
晴子はそう言いながら弱く笑うと、輝馬の電話番号をタップした。
『もしもし……』
時間をおいて何度もかけた電話にやっと出た輝馬が、寝起きのような声をしていたので、晴子は思わず黒薔薇のはるか上にある壁時計を見上げた。
9時40分。
とっくに出勤しているはずだが。
「あ、輝馬?何よ、何回も電話したのに」
『ああ……悪い。週明けは仕事が忙しくて』
吐息を含んだ色っぽい声。
もしかして今日は休みを取ったのだろうか。
よもや女との色疲れで今の今まで眠っていて、その二の腕には昨日晴子が城咲されたように腕枕をしてもらっている女がいるのだろうか。
まさかその女は―――。
『それよりどうしたの。あんまり時間ないんだけど』
急にいつもの声に戻った。
数秒前までベッドの上のような気だるそうな声を出していたと思ったのに。気のせいだったのだろうか。
さて。
何と切り出そうか。
いざとなると言葉が出てこない。
晴子はノープランで電話をかけてしまったことを後悔した。
「あのね、聞いてよ。この間フラワーアレンジメント教室に行ったらね」
そうそう。そこから話せばいい。
「いつも夫婦で参加している鴨居さんて人がいるんだけど、奥様の方が都合悪くて来れなかったのね」
最近いつものサロンで実際にあった事実を交えつつ、
「奥さんがいないのをいいことに旦那さんの方がしつこくアプローチをしてきて……」
まずは笑い話から入って、その話題の一つとして峰岸の話も滑り込ませる。それでいい。
『俺に言ってもしょうがないでしょ。どうしても迷惑で困るなら、教室の運営に相談すれば?』
いつもは困りながらも話を聞いてくれる輝馬が、今日はやけに冷たい。
『ねえ、母さん。その講師って……』
そこで輝馬は妙な間を置いてから言葉を続けた。
『そういうの注意とかしてくれないの?母さんは美人なのに少し無防備なところがあるからさ。気を付けないとだめだよ』
「……………!!」
晴子は黒薔薇の横にある、輝馬の写真立てを見つめた。
美人。
無防備。
気を付けないと。
25年間彼を育てて、初めて女性として扱われた気がした。
輝馬が今まで自分をそんな風に見てくれていただなんて。
思わず笑顔が漏れてしまう。
「それ、昔から言われるのよね。ダメね、私はいつまでたっても」
自分でも滑稽なほど声が高くなっているのがわかる。
抑えなければ。
『俺、そろそろ行かなきゃ』
輝馬がそう切り出す。
いけない。
これでは電話をかけた意味が……。
『あ、ごめん。最後に一つだけ!』
息遣いで輝馬が迷惑がっているのがわかる。早く終わらさなければ。
「あなたの高校の同級生で、峰岸さんて人いた?」
『……………』
電話の向こうに輝馬はいるはずなのに、彼は急に黙り込んでしまった。
「峰岸さんよ。女の子。いた?」
ディスプレイの【通話中】の表示を確認しながらさらに聞く。
「輝馬?」
『あ……ああ』
やっと低い声が返ってきた。
『……峰岸って何人かいたような気がするから、パッとは思い出せないな』
何人か……いただろうか。
確かに漢字が読めないほど珍しい苗字ではない。
しかし学年に数名いるようなありふれている苗字でもない。
「峰岸優実って子よ。同じクラスだったと思うけど」
『……ッ』
名前を出した途端、明らかに電話口の雰囲気が変わった。
これは―――
(ビンゴね……)
晴子は写真立ての中で微笑む輝馬を睨んだ。
昔両想いだった程度ではない。
輝馬は今、リアルタイムで彼女と何かがある。
母親に知られたくないようなことが。
「今日ね、新しい人がサロンに入ったんだけど、その子と幼馴染みのお母さんが来てね。輝馬のことも知ってたのよ」
『へえ』
今度はすぐに相槌を打った。
しかしその声は軽く震えていた。
「それでね峰岸さん、専門学校に進んだらしいんだけど、実はストーカーに悩まされていたみたいなのよ」
『……ストーカー?』
「それでね……そのお母さんが言うには、娘さん、顔を真っ青にして言うんだって」
とどめを刺す。
「ある日を境に、峰岸さんと全く連絡が取れなくなったって」
『……………』
今までで一番長い間が、二人の間を流れた。
輝馬の声を聞くのが怖い。
それでも、これではっきりする。
輝馬が何と言おうと、
輝馬がどう誤魔化そうと、
輝馬が何を隠そうと、
輝馬がどう憚ろうと、
自分なら見抜くことができる。
だって彼が生まれてから25年間、一番見てきたのは自分だから。
輝馬にとって、
今の、輝馬にとって、
彼女が何なのか。
輝馬の人生のどの位置にいるのか。
ーーさあ、教えなさい。輝馬。
輝馬から出たのは、
「……は」
笑い声だった。
『何それ。怪談?』
呆れて笑っているのが、半分。
誤魔化そうとしているのが、半分。
「心配じゃないの?」
追い打ちをかけてみる。
『……あのね、母さん』
輝馬はため息をつきながら言った。
『峰岸優実なら、俺たちのワイプスのグループに入ってるんだ』
「ワイプス?」
『そ。毎週金曜日、高校の元クラスメイト達でカメラ繋いでみんなで飲んでるんだけど、その中に峰岸もちゃんといるから。だから心配しなくても大丈夫だよ』
晴子はスマートフォンを持っていた手をダランと垂らした。
毎週飲んでいる?
みんなでカメラを繋いで。
その中にちゃんと峰岸もいる?
ーーなら最初に晴子が峰岸の名前を口にしたときに、すぐにピンと来たはずだ。
峰岸優実に。
それでもとぼけた理由は―――。
「ーーー」
確信した。
理由?そんなのひとつしかない。
輝馬は今も峰岸優実と関係がある。
「……それで?」
晴子はスマートフォンを耳に戻しながら言った。
「輝馬とその峰岸さんは、どういう関係?」
『どういうって……』
たっぷり考えるだけの間を取ってから、輝馬が口を開いた。
『だから、元クラスメイトだよ』
―――そうね。でも……
「それだけ?」
『うん』
―――。
晴子は写真立ての輝馬に向かって叫んでいた。
「どうして嘘なんてつくの!?」
ーー他でもないこの私に!
「母さんに言えない関係なの!?」
ーーその女とセックスしてるから?
「あなたがちゃんと話してくれるなら、お母さんは何も責めたりしないのよ!?」
ーーそうだ。幼いときみたいに。
1日にあったことを1から10まで教えてくれる輝馬なら。
先生に怒られたことや好きな子の名前まで全部教えてくれる輝馬なら。
ひとつも責めたりしないのに……!
ーーーあの女のせいだ。
春子は振り返った。
あの女のせいで、輝馬は自分に隠し事をするようになった。
3つ並んだウォルナットのドア。
その真ん中。
ひとつだけ南京錠がついたドアを睨む。
あの女が、輝馬をおかしくした。
『……母さんてば。落ち着いて』
輝馬の声に困惑と怯えが混じる。
『俺、一つも嘘なんか言ってないよ。全部本当のことを言ってるのに、どうして怒るの」
「……………」
晴子はわなわなと怒りで震える唇を押さえるように噛んだ。
「……そうよね。ごめん。お母さんがどうかしてたわ」
晴子は長いため息をついた。
「…………」
今ここで輝馬を叱っても仕方がない。
だって輝馬は、何一つ悪いことはしていない。
母に恋愛事情をほんの少し隠しただけ。
ただそれだけなのだから。
そう。
普通の親子なら。
「今週、予定がないなら帰って来なさいよ。何か美味しいもの作るから」
晴子はバラバラに砕け散った母という仮面を拾い集めて、精一杯繕った。
『うーん。そうしたいけど、ちょっとどうかな。仕事の方が忙しいから』
輝馬もいつもの声に戻っていった。
「わかった。お仕事、無理しないでね」
『うん。ありがと。じゃ』
電話は切れた。
「…………」
暗転したスマートフォンの画面。
その闇を埋めたのは、
怒りという感情だった。
「…………」
そのドアをもう一度振り返る。
『あっ、あぁっ、やだ、やぁ、輝馬……あぁっ』
あの穢らわしい声。思い出すだけで虫酸が走る。
『やめ、て……あぁ、もう……やめ……』
汚いメス豚。私の可愛い輝馬を誘惑して。
輝馬の童貞を搾り取って……!!
こんなことになるなら……!
晴子はドスドスと足音を立てて、キッチンに回った。
そしてナイフスタンドから、一番細身の包丁を持ち出した。
ーーもっと早くに殺してやればよかった。
南京錠に手を掛けた瞬間、
ピンポーン。
「……!?」
呼鈴が鳴った。
「………」
ピンポーン。
無視しようかと思ったが、追い打ちをかけるように、もう一度鳴った。
晴子は包丁をシンクの上に置き、廊下を通って、玄関ドアを開けた。
「………城咲さん?」
一瞬、誰かわからなかった。
いつもは軽く真ん中から分けているのに、今日の城咲はボサボサの前髪を前に垂らしていた。
いつも小綺麗なシャツを着ているのに、寝起きのような上下スウェット姿で、足にはサンダルをつっかけている。
白い滑かな肌にはほんのり髭まで生えている。
昨日、晴子を抱いた彼とは別人だ。
「……ふっ」
晴子は思わず吹き出した。
「どうしたの?」
彼は寝ぐせのついた頭をポリポリと掻きながらきまり悪そうに笑った。
「あなたの夢を見て―――」
「ええ?」
「無性に会いたくなって……」
そう言いながら、玄関先で抱きすくめてくる。
「――――」
清潔な柔軟剤の香り。
それに含む確かな男の香り。
昨日あんなに愛された後なのに、
「…………ん」
晴子の身体の中心は、すでに熱を帯びていた。