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「エステル……」
部屋の壁に飾られた聖女エステルの大きな肖像画を見上げながら、王国の第一王子レグルスが悩ましげに彼女の名を呼ぶ。
エステルのいない毎日はあまりにも虚しくて、頭がおかしくなりそうだった。
ある晴れた日、王都から地方の神殿へ向かう途中、エステルは休憩がしたいと馬車から降りたあと、いつのまにか居なくなってしまったという。
エステルを見失った神官たちは厳罰に処すよう命じた。
聖女を監視を怠るなどあり得ない。万死に値する。
当然、報告を受けてすぐエステルの聖女の力を探らせて居場所を見つけ出そうとした。
しかし、彼女の力はすっかり消えて感知できなくなっており、見つけることができなかった。
「死んでしまったのだ」
そう言う者もいたが、レグルスは信じなかった。
彼女と自分には特別な絆がある。
その絆が教えてくれているのだ。
彼女は生きていると。
しかし、それならなぜ、と納得できない思いもある。
エステルとは結婚の約束をしていたのに。
彼女の伴侶となる自分を置いて、なぜ逃亡してしまったのか。
レグルスがエステルを愛しているように、エステルもまたレグルスを愛しているはずなのに。
(移動中、逃げ出したくなるほど嫌な目に遭わされたのかもしれない)
きっとそうだ。
レグルスは地方の神殿の訪問に同行していた神官たちを全員処分した。
(エステル……君を怖がらせるものは僕がすべて排除してあげるから、早く戻っておいで──)
しかし、それからもエステルが戻ってくることはなく、時だけが無情に流れていった。
エステルを失って抜け殻のように過ごしていたある日、森で聖女の力が感知されたと神殿から報告があった。
レグルスはすぐに森へ騎士を向かわせた。
「エステルを見つけるか、何か手がかりを掴むまで帰ってくるな」と命じて。
数日が経った頃、騎士たちは王城へと戻ってきた。
きっとエステルに繋がる何かが見つかったのだと、レグルスは胸が高鳴った。
ところが、騎士たちの報告は彼の期待を裏切るものだった。
「あの森に聖女様はいらっしゃいません」
森に派遣した騎士全員が口を揃えてそう言った。
「なぜだ? 森にエステルがいない証拠があるのか?」
「森の木こりが言っていました。聖女様らしき女性を一日だけ匿ったあと、隣国へ向かうというので見送ったと」
木こり風情の証言など、にわかには信じがたかったが、優秀な騎士たちが熱心に「信頼できる人間だ」と言い張るため無下にはできなかった。
それにもう一つ、嫌なことを思い出した。
(あの森には、奴がいるという噂があったはず)
奴がいるなら、騎士たちの報告の信憑性も薄くなる。
(……だが、奴が自ら誰かのために力を使うことなどあり得ない。きっと杞憂だろう)
ひとまず、隣国へ通じる街道や海路に騎士をやり、エステルを探させることにしよう。
そちらのほうが、あり得る線だ。
「エステル、なぜ僕を置いて去ってしまったんだ……?」
エステルはレグルスのことなど、どうでもいいのだろうか?
(いや、そんなはずない。エステルは僕のことを愛している)
きっと、大事になってしまったことに動揺して、自分から帰ってこれなくなってしまっただけだ。
それなら、自分がエステルを見つけ出して迎えにいってやらなければ。
レグルスは宝石の散りばめられた小箱から一房の美しい髪を取り出すと、愛おしげに口づけた。
◇◇◇
「──そうだ、指輪だわ」
エステルが洗濯物を干しながら呟いた。
アルファルドからペンダントにしてもらった魔石。
以前どこかで見たような覚えがあると思っていたのだが、それが何だったのか思い出したのだ。
彼──第一王子レグルスがつけていた指輪に、たしか似たような魔石がはめ込まれていた。
「あの石にも、たしかこんな風に火花みたいな模様が入ってた……」
服の下にしまっていたペンダントを取り出し、赤色の石を太陽に透かして眺めると、石の中の火花がきらりと輝いた。
レグルスは指輪の石を「神聖な力が込められた聖石」だと言っていた。
けれど、アルファルドはそれに似たこの石を「強力な魔石」だと言っていた。
単に呼び方が違うだけで、深い意味はないのかもしれない。
(でも、なんだか引っかかる……)
それに、なぜ二人がそっくりな石を持っているのかも気になる。
強い力を宿した特別な石だから、王族であるレグルスや闇魔法使いのアルファルドが好んで手に入れたがっただけなのだろうか?
それとも、何か別の理由があるのだろうか?
洗濯物を干すのも忘れて考え込んでいると、ふいに背後から可愛らしい声が聞こえてきて、エステルが振り返った。
「エステル、僕もお手伝いするよ!」
「ミラ!」
朗らかな笑顔を浮かべながら、こちらへ駆け寄ってくる。
その愛らしい姿に、エステルの頬も自然と緩んだ。
「僕がカゴから洗濯物を出すね」
たまにこうして洗濯干しを手伝ってくれるミラは、物干し竿にはまだ手が届かないので、その代わりに洗濯物をカゴから出してくれるのだった。
「ありがとう、ミラ。助かるわ」
「えへへ。エステルに喜んでもらえたら、僕も嬉しいから」
(な、なんて可愛いのかしら……!)
思わず抱きしめたい衝動に駆られてしまうが、今は洗濯干しの途中だから、と必死に我慢する。
「エステル、はいどうぞ」
ミラが洗い立ての靴下を手渡そうとしてくれたが、その手がふいに止まった。
「どうしたの、ミラ? もしかして、まだ汚れが──」
洗い残しでもあっただろうかとエステルが尋ねようとしたが、ミラの視線は靴下ではなく、別の場所に向けられていた。
「あ……あ……」
ミラの手が震え、白い靴下がすべり落ちる。
先ほどまで愛らしく笑っていたその目は、今はひどい怯えの色が浮かんでいた。
「ミラ! どうしたの!?」
「やだ……それやだ……こわい……」
「怖い? 何が怖いの?」
「それ……その赤いの……僕また閉じ込められちゃうの!?」