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第十湯 帰り道の湯
旅の最後の夜に、温泉街はよく光っていた。
坂道の両側に宿が並び、
窓の灯りが段々に続いている。
湯けむりは低く流れ、
土産物屋の軒先からは饅頭の匂いがした。
遠くで下駄の音がする。
近くで湯の流れる音がする。
そのどちらも、
もう少ししたら眠ってしまいそうだった。
磁馬は宿の二階の窓辺に座っていた。
スケッチ帳を膝に置く。
肩掛け鞄はすぐ横。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
湯札。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
「最後の夜ですね」
声がした。
千鶴が茶を持って部屋に入ってきた。
茶色の作務衣。
後ろでまとめた髪。
歩く音はほとんどしない。
磁馬は窓の外を見たままうなずいた。
「うん」
「たくさん湯を回られたそうですね」
「かなり」
「お気に入りはありましたか」
磁馬は少し考えた。
富士山が見える湯。
熱すぎる江戸の湯。
便利すぎる未来の湯。
雪の音だけが残る山奥の湯。
港町の湯。
木造浴場。
どれも違う。
どれも、同じようには言えない。
「全部、違った」
千鶴は少し笑った。
「それが温泉巡りですね」
磁馬は茶を受け取った。
湯上がりの手に、
温かい茶碗がよく合った。
「うまい」
「それはよかったです」
千鶴は窓の外を見た。
「この部屋からの夜景も、なかなかいいんです」
「うん。描く」
「やっぱり」
千鶴は笑った。
磁馬はペンを持った。
温泉街の夜景を描く。
坂道。
宿の灯り。
湯けむり。
土産物屋。
遠くの足湯。
夜の空気。
窓に映る自分の手。
線を置くたび、
旅の終わりが紙に近づいてくる気がした。
終わりは苦手ではない。
でも、
何かをしまう時の静けさがある。
磁馬はその静けさを描こうとした。
その時、
廊下の向こうで小さな声がした。
「あ、まだ売店やってる」
黄緑の上着の少年が、
土産の包みを持って立っていた。
湯上がりの髪が少し湿っている。
千鶴が言った。
「悠太くん、廊下は静かにね」
「はい」
悠太は少し声を小さくして、
磁馬の部屋をのぞいた。
「絵?」
「うん」
「夜の温泉街?」
「うん」
「ぼくも見ていい?」
「うん」
悠太は窓辺に来た。
土産の包みを胸に抱えている。
「明日帰るんだ」
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「僕も」
「帰りたくない?」
磁馬は窓の外を見た。
「少し」
「ぼくも少し」
悠太は坂道の灯りを見た。
「でも、家に帰ったら土産食べる」
「それはいい」
「でしょ」
磁馬は悠太の横顔を描き足した。
帰りたくない顔。
でも土産を楽しみにしている顔。
どちらも同じ顔にあった。
しばらくして、
千鶴は茶碗を下げて戻っていった。
悠太も家族の部屋へ戻った。
磁馬はひとりになった。
窓の外の温泉街は、
少しずつ静かになる。
灯りが一つ消える。
また一つ。
でも全部は消えない。
どこかに夜番の灯りが残っている。
磁馬はもっと近くで描きたくなった。
鞄を持つ。
湯札を確かめる。
ある。
スケッチ帳。
ある。
ペンケース。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
宿の外へ出ると、
夜の空気は湯上がりの体に少し冷たかった。
坂道を下りる。
足湯の前を通る。
閉まりかけた土産物屋の前を通る。
饅頭の蒸気が、
最後のように細く上がっている。
小さな提灯を持った男が歩いていた。
灰色の上着。
低い声。
ゆっくりした足取り。
「夜歩きかい」
「描きに」
「こんな時間に」
「この時間だから」
男は少し笑った。
「俺は巌だ。夜番をしてる」
「磁馬」
「じば?」
「うん」
「馬みたいな名だ」
「よく言われる」
巌は提灯を少し持ち上げた。
「足もとに気をつけろ。湯けむりで石が湿ってる」
「うん」
磁馬は坂の途中で座った。
宿の灯りが見える場所。
下の足湯も見える。
湯けむりが坂をゆっくり上がってくる。
巌は少し離れて立っていた。
「何時間も描くつもりか」
「たぶん」
「冷えるぞ」
「少し描いたら湯に戻る」
「少しが長そうだ」
「よく言われる」
磁馬は描いた。
夜の温泉街。
窓から見た景色とは違う。
坂道の石。
濡れた下駄の跡。
閉じかけた店。
巌の提灯。
遠くの宿の窓。
そして、
これから向かう次の時代の気配。
旅の最後は、
終わりではなく、
次へ行く前の湯気だった。
その時、
磁馬の鞄から小さな布包みが落ちた。
ころ。
坂の石の上を滑る。
磁馬の手が止まった。
「落ちた」
巌がすぐに提灯を向けた。
布包みは、
坂道の端の排水溝のそばで止まっている。
中には湯札が入っている。
磁馬は立ち上がった。
「探す」
巌が静かに言った。
「見えてる。だが急ぐな」
磁馬はゆっくり近づいた。
布包みは見えている。
けれど、
湯けむりで石が濡れ、
少しでも触ると溝へ落ちそうだった。
そこへ、
後ろから足音がした。
悠太だった。
「まだ描いてたの?」
「落とした」
悠太はすぐにしゃがんだ。
「どれ?」
巌が提灯を低くした。
「これだ」
悠太は土産の包みを胸に抱え直し、
空いた片手を伸ばそうとした。
磁馬が止める。
「それも落ちる」
悠太は慌てて包みを脇にしっかり抱えた。
「危ない」
巌が腰の小さな棒を出した。
「これで寄せる」
棒の先で、
布包みをゆっくり押す。
少し動く。
溝の方へ行きそうになる。
悠太が小さく言う。
「右」
巌が右へ寄せる。
磁馬は両手を広げる。
布包みが坂の中央へ戻る。
磁馬はそっとつまんだ。
「見つかった」
布は少し湿っていた。
でも中の湯札は無事だった。
磁馬は胸の前で包みを押さえた。
「ありがとう」
悠太は安心したように笑った。
「最後の夜でも落とすんだね」
「うん」
巌も少し笑った。
「旅の最後らしいな」
磁馬は湯札を鞄の奥へ入れた。
今度は深く。
一つ。
二つ。
三つ。
しっかり留める。
それからまた座り、
絵の続きを描いた。
布包みを探す三人。
提灯を持つ巌。
土産を抱える悠太。
坂道に戻った湯札。
絵の中で、
湯けむりだけがゆっくり坂を上っていた。
宿の灯りは少しずつ減っていく。
でも、
坂の下の足湯の灯りだけは残っていた。
悠太がのぞき込む。
「絵の夜景、まだ消えないね」
「うん」
「本物は、そろそろ眠るのに」
「絵の中は、少しだけ長く起きてる」
巌が言った。
「夜番みたいだな」
磁馬はうなずいた。
「そうかも」
最後に、
磁馬は足湯へ入った。
旅の最後の湯は、
深い湯船ではなかった。
坂道の端にある、
小さな足湯。
でも、
それがよかった。
靴を脱ぎ、
足を湯に入れる。
じんわり温かい。
歩いた旅の分だけ、
足が覚えていた疲れがほどける。
悠太も隣で足を入れた。
「熱すぎない」
「うん」
巌は提灯を持ったまま、
近くの石に座った。
「足だけでも、湯は湯だ」
磁馬はうなずいた。
足湯から見る温泉街は、
低かった。
窓から見た夜景より、
人の高さに近い。
宿の灯り。
坂の石。
土産の包み。
提灯。
湯けむり。
磁馬はスケッチ帳を膝に置き、
最後の線を入れた。
絵の中の温泉街は、
少しずつ次の時代へ向かっていた。
宿の灯りが消える。
湯けむりが残る。
坂道が静かになる。
足湯だけが温かい。
そして、
磁馬の影が、
ほんの少しだけ、
別の時間へ伸びている。
悠太がそれに気づいた。
「磁馬さんの影、変な方向」
磁馬は見た。
確かに、
紙の中の影だけが、
坂道とは違う方へ伸びている。
巌は静かに言った。
「帰り道が別なのかもしれんな」
磁馬は少し笑った。
「うん」
悠太は首をかしげた。
「どこ行くの?」
「次の時代」
「次の町じゃなくて?」
「うん」
悠太はよくわからない顔をした。
でも、
土産の包みを抱え直して言った。
「じゃあ、忘れ物しないでね」
「かなり気をつける」
「絶対のほうがいいよ」
磁馬は少し困った顔をした。
「努力する」
巌が低く笑った。
宿へ戻る前に、
磁馬は小さな紙を三枚出した。
千鶴には、
窓辺から温泉街を見る姿。
茶色の作務衣。
静かな足音。
夜の宿の灯り。
悠太には、
土産の包みを抱えて坂道に立つ姿。
黄緑の上着。
湯上がりの髪。
夜景を見上げる目。
巌には、
提灯を持って湯けむりの坂を歩く姿。
灰色の上着。
低い声。
夜番の背中。
千鶴の絵では、
宿の窓の灯りがゆっくりまたたいていた。
悠太の絵では、
土産の包みが夜の灯りを受けて少し揺れていた。
巌の絵では、
提灯の明かりが湯けむりの中で静かに動いていた。
「ありがとう」
悠太は絵を胸に抱えた。
「これ、家で見る」
巌は絵を眺め、
小さくうなずいた。
「夜番も絵になるもんだな」
宿へ戻ると、
千鶴が玄関で待っていた。
「遅くまで描いていたんですね」
「うん」
磁馬は絵を渡した。
千鶴はしばらく見つめてから、
静かに笑った。
「この温泉街、今夜より少し長く起きていますね」
「うん」
「いい夜です」
部屋に戻り、
磁馬は荷物をまとめた。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
湯札。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
湯札は宿へ返す。
茶碗は戻した。
包み紙はこの時代で片づけた。
もらった絵の代わりに、
出会った人たちの絵を残した。
磁馬は窓を開けた。
温泉街は、
もうかなり静かだった。
湯けむりだけが、
まだ道の上をゆっくり流れている。
鞄の中の絵では、
帰り道の湯が静かに動いていた。
灯りが消える。
湯けむりが残る。
布包みが落ちる。
見つかる。
足湯に入る。
影が次の時代へ伸びる。
磁馬は鞄を肩にかけた。
旅は終わる。
でも、
終わった旅の湯けむりは、
すぐには消えない。
廊下を歩く。
玄関で千鶴に湯札を返す。
外へ出る。
巌の提灯が遠くに見える。
悠太の部屋の窓は、もう灯りが消えている。
磁馬は坂道を下りた。
次の時代へ向かう道は、
温泉街の夜の端にあった。
見えないほど静かで、
湯けむりの向こうに少しだけ開いている。
磁馬は一度だけ振り返った。
宿の灯り。
坂道。
足湯。
湯けむり。
全部、そこにあった。
「またね」
小さく言う。
それから磁馬は、
鞄をしっかり抱え、
静かに次の時代へ歩いていった。
コメント
1件
うわ、この話、すごく沁みました。温泉街が「眠る」って表現がもう詩的で。千鶴、悠太、巌——出会った人たちに一枚ずつ絵を贈って去っていく磁馬の距離感、大好きです。「絵の中は少しだけ長く起きてる」って台詞、宝物にしたい。旅の終わりって寂しいけど、湯けむりみたいに消えずに残るものがあるんですね。