瑠璃子は中沢からの電話を受けるべきかどうか悩んでいた。
しかしこのまま逃げていても何も解決はしない。だから覚悟を決めて電話に出る事にした。
「もしもし」
「もしもし瑠璃子? 今大丈夫?」
その懐かしい声を聞くとあの懐かしい日々が思い出される。
「どうしたの? 急に電話なんて」
「久しぶりだね、元気そうで安心したよ」
中沢は少し緊張気味に続ける。
「実は今、岩見沢駅にいるんだ」
瑠璃子は思わずスマホを落としそうになる。
「え? ど、どうして?」
「昨日から学会で札幌に来ていたんだけど瑠璃子に会えないかなと思って寄ってみた。今から少し会えないかな?」
てっきり東京からの電話だろうと思い込んでいた瑠璃子は中沢が同じ町にいると知り動揺していた。
「でも今さら会っても話す事は何もないし」
「そうだよね…でも僕は瑠璃子に話しがあるんだよ」
中沢は自信に満ちた以前の態度とは違いかなり気弱な声で言った。弱っている姿を見るとつい願いを叶えてあげたくなる。
おそらく中沢は婚約破棄の事を瑠璃子に説明したいのだろう。
きっちりけじめをつけるにはいい機会かもしれない…そう思った瑠璃子は中沢の要望を聞き入れる事にした。
「わかった、じゃあ今から駅に迎えに行くね。話はファミレスでもいい?」
「うん、ありがとう」
電話を切った瑠璃子は駅へ向かった。
その時医局の窓から外を見ていた大輔は瑠璃子の車がすぐに発進しないので不思議に思う。車はエンジンをかけたまましばらく停まっていた。
運転席では深刻な顔をして瑠璃子が電話している。瑠璃子は心なしか少し青ざめているようにも見えた。
何かあったのだろうか? 大輔は気になる。
瑠璃子は電話を終えると漸く職員駐車場を後にした。
駅までは5分ほどで着いた。
人がまばらな駅前のロータリーに薄手のコートの襟を立て寒そうにしている中沢の姿があった。
辺りは既に真っ暗で街頭に照らされた中沢の顔はどこか淋し気だ。
車が近付くと瑠璃子に気付いた中沢の表情が笑顔になる。
中沢の前で車を停めた瑠璃子は助手席を指差して「乗って」と合図した。すると中沢は嬉しそうに助手席に乗り込んできた。
「今日は突然ごめん。車、運転するようになったんだね」
「うん、こっちは車がないと生活出来ないから」
瑠璃子は真っ直ぐ前を見つめたまま答えると市内に数軒しかないファミレスの一つへ向かった。
懐かしいオーデコロンの香りが助手席から漂ってくる。その匂いを嗅ぐと中沢と過ごした日々を思い出す。
泣きたい気持ちをこらえながら瑠璃子はただひたすらハンドルをギュッと握り締めた。
「もうこっちの生活には慣れた?」
「うん。みんなすごくいい人ばかりだから」
「東京と比べるとこっちはかなり寒いね。でもこれからもっと寒くなるんだろうな」
「うん、そうみたい…」
今の瑠璃子はどこかぎこちない。昔のようにはもう話せない。もしあの頃と同じように中沢に接してしまったら弱い自分が一気に姿を現し崩れ落ちてしまうような気がした。そう思うとぶっきらぼうにしか話せなかった。
瑠璃子は勤務先の病院から一番遠いファミレスに中沢を連れて行った。そこは瑠璃子がいつも寄るスーパーの隣にある。
車から降りた二人は店に入った。平日の夜なので店内は空いていた。
二人は案内された窓際の席に向かい合って座る。
夕食の時間帯だったが二人はドリンクバーだけを注文した。
瑠璃子はつい付き合っていた頃の癖で中沢の分のコーヒーも取ってきてしまう。
中沢はそれをありがとうと言って嬉しそうに受け取る。
こうしてファミレスにいるとあの頃を思い出してしまう。出会ったばかりの頃、二人はよくファミレスで夜中までお喋りをした。あの時はただ一緒にいるだけで幸せだった。
過去を思い出すと涙が滲んできたので瑠璃子は慌てて口を開いた。
「どうして来たの?」
「うん……君をあんな風に傷付けておいてこんな事を言える資格はないんだけど、瑠璃子に戻って来て欲しいって伝えに来たんだ」
中沢は緊張した面持ちで言うとグラスの水をグイッと飲んだ。
「結婚が駄目になったって涼子から聞いたわ。本当なの?」
「本当だよ。言い訳のように聞こえるかもしれないけど彼女とは魔が差して一度だけそういう関係になってしまった。たった一度でも裏切ってしまった事は事実だ。だから許してもらおうとは思わない。もちろん彼女とは付き合うつもりなんて全くなかった。ただ彼女から妊娠していると言われたので責任を取らなきゃいけないと思ったんだ。結果的に君を傷付ける事になってしまい本当にすまない。でも彼女の妊娠が嘘だとわかり婚約は白紙に戻した」
中沢は今まで見た事がないほど弱っていた。きっと東京で色々あったのだろう。
そんな中沢に瑠璃子は同情のような気持が芽生えつい優しい言葉をかけそうになる。しかしすぐにそんな自分を律した。
「私、あなたが婚約したって聞いた時すごくショックだった。それもあなたから直接聞いたんじゃなくて他の人から聞いたのよ。あの時の私の気持ちがあなたにはわかる? それに相手が妊娠していると聞いて更にショックを受けたわ。子供がいるなら私が引き下がるしかないじゃないって……だから私は身を引いたの。あのまま東京にいるのが辛かったから北海道へ来たの。そう、私はここへ逃げて来たのよ!」
瑠璃子は中沢に対する今までの思いを一気にぶつけた。そして少し落ち着こうと一口水を飲んでから更に続けた。
「でもね、北海道に来たら少しずつ自分を取り戻す事出来たの。心の傷もだいぶ癒えてきたわ。だからこれからは前だけを見て進んで行こうって…そう決めたの」
そして瑠璃子は最後に自分の気持ちを正直に伝えた。
「だから私は東京には戻らないわ」
瑠璃子は『あなたとやり直すつもりはない』という言葉をあえて『東京には戻らない』という言葉に置き換えた。
それは今瑠璃子が中沢に対して出来る精一杯の優しさだった。
中沢はその言葉を聞くと「わかっていたよ」という顔をして微笑む。そして諦めたように言った。
「うん、わかった。気持ちをきちんと伝えてくれてありがとう」
そしてもう一言付け加えた。
「でもね、これだけは伝えておきたかったんだ。僕は瑠璃子の事を遊びだと思って付き合った事は一度もなかったよ。あの件がなければ瑠璃子と結婚したいと思ってた。それなのに全部自分でぶち壊して…僕は本当にばかだな…」
中沢は淋しそうに笑う。
中沢の本心を聞いた瑠璃子は涙をこらえるので精いっぱいだった。
中沢の言葉に揺れている自分がいる。
神様はなぜ今頃こんな試練を与えるのだろうか?
例えひどい捨てられ方をしても中沢は瑠璃子が4年間真剣に付き合った恋人だ。
その中沢から逃げるようにしてこんなに遠くまで来たのに、まさか今頃になって彼の思いを聞くなんて……。
こんな事なら中沢の気持ちを知らないままでいた方がずっと楽だったのに……瑠璃子は涙をこらえながら思う。
その頃、大輔は大学病院を出て車で自宅に向かっていた。
いつものスーパーに寄ろうと車を駐車場に停めると、隣のファミレスの駐車場に瑠璃子の車が停まっている事に気付いた。
ファミレスの方を見ると窓際の席に瑠璃子が座っている。瑠璃子は男性と向き合い深刻な表情で何か話をしている。
気になった大輔はしばらく車中から2人の様子を見ていた。
数分後、話を終えた瑠璃子と中沢はファミレスから出て来た。
ファミレスの駐車場で立ち止まると中沢が言った。
「僕はタクシーを拾って駅に戻るから」
「うん……じゃあ元気でね」
「瑠璃子もね。寒いから身体に気を付けて」
瑠璃子は黙ったまま頷く。もうそれ以上言葉を発する事が出来なかった。もし一言でも言葉を発したら自分は今この場で泣き崩れてしまうだろう…そう思った。
中沢は最後に瑠璃子に向かって微笑むと、国道沿いの歩道を駅へ向かって歩き始めた。
瑠璃子はそんな中沢の後ろ姿を無言で見つめていた。
それから瑠璃子は駐車場の端に停めてある車へ戻ると運転席に座る。
座った途端両手で顔を覆って泣き始めた。
中沢への想いはもう消化出来ていると思っていた。けれど中沢を目の前にするとそれは錯覚だったという事に気付く。
瑠璃子はこの4年の間精一杯中沢を愛した。なぜなら中沢は瑠璃子が付き合った初めての男性だったからだ。
瑠璃子はこらえきれずに嗚咽を漏らして激しく泣く。
肩を震わせながらしゃくりあげるようにして泣き続けた。
今ここで思い切り泣いたらきっと前に進めるはずだ。
瑠璃子はそう願いながらここで思い切り泣く事を自分に許可した。
瑠璃子が激しく泣いているのを見て大輔は胸が締め付けられるような気持ちになる。
おそらく瑠璃子と話していたあの男性は東京で付き合っていた瑠璃子の恋人だろう。
どういう経緯であの男性がここへ来たのかわからないが、瑠璃子は彼に対してきっぱりとけじめをつけたのでは? 大輔はそんな風に思った。
15分後、瑠璃子は漸く落ち着きを取り戻してハンカチで涙を拭いていた。
その時大輔は車をファミレスの駐車場へ移動させると瑠璃子の真横に車を停める。
そして車を降りると瑠璃子が座っている運転席の窓をコンコンとノックした。
その音に気付いた瑠璃子は泣き腫らした目で大輔を見上げるとびっくりした表情をしていた。
コメント
13件
大輔先生、慰めてあげて😭 今更、中沢先生に戻って来て欲しいなんて言われて心が傷ついてるの。 可哀想で仕方がない。 中沢先生、身勝手過ぎるよ‼️
大輔先生、 黙って 瑠璃子ちゃんをぎゅっとしてあげてください。m(_ _)m
魔が差したのはわかった。ただ4年付き合ってわざわざ北海道まで来た中沢の気持ちや言葉は嘘ではない気はする。だけどもう縁も無かったのよね😢 大輔さん、どうか瑠璃ちゃんを包んであげてね🥺