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第3話 呼べない名前
朝、
結城は声を出さずに起きる。
洗面台の鏡に映る顔は、
無精ひげが残り、
目だけが先に目覚めている。
彼女は、
台所にいる。
背中は細く、
肩口の布が少し落ちている。
結城は、
呼びかけない。
名前が、
喉に引っかかる。
代わりに、
物音を立てる。
椅子を引く。
水を飲む。
彼女は振り向き、
小さく頷く。
それで通じる。
外に出る。
結城は、
名乗る必要のある場所で、
短い仮の呼び名を使う。
音は軽く、
自分のものではない。
呼ばれても、
少し遅れて反応する。
受付の女性は、
首をかしげる。
視線が一拍遅れる。
彼女は、
外に出ない。
理由は言わない。
言えない。
結城が戻ると、
彼女は部屋にいる。
靴下を履き替え、
床に座り、
古い雑誌をめくっている。
ページの端が折れている。
結城は、
背中越しに立つ。
名前を呼べば、
振り向くはずなのに。
代わりに、
咳払いをする。
彼女は、
気づく。
慣れているようで、
少しだけ間がある。
夜。
電話が鳴る。
仮の呼び名が、
画面に出る。
結城は出ない。
彼女は、
横で黙っている。
髪を耳にかける仕草が、
以前と同じで、
それだけが確かだ。
結城は、
自分の名前を思い出そうとして、
思い出せない感覚に触れる。
彼女の名前も、
同じ場所に沈んでいる。
呼べないまま、
日付が変わる。
部屋だけが、
少しずつ、
外とずれていく。