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Side日菜
「日菜っ」
晴友くんに呼び止められたのは、駅の出口の一角だった。
一瞬、聞こえないふりをしようかと思ったけれど…ゆっくりと振り返った。
晴友くんは駆け寄ってくると怒ったように言った。
「なに勝手に帰ろうとしてんだよ。送ってくって言ったろ」
「……」
「カンナは今頃マネージャーにこっぴどく怒られてるよ。あんな人が大勢いる前であんな行動とったんだ。自業自得だ」
素っ気なく言う晴友くん。
うつむくわたしの頭の中では、いろんな人のいろんな声がぐるぐる回っていた。
『「あの子」、最近仕事を始めたから来なくなっちゃって…。それからというもの、あいつはイライラしっぱなし』
『あいつ、自分では気づいていなかったけど、「あの子」のことマジで好きだったからな』
『わたし、晴友と付き合ってたのよ』
まさか…
あのカンナさんが、暁さんや美南ちゃん、拓弥くんが言っていた『晴友くんの好きな人』だったなんて…。
今日はすごくいい日と思ったのに。
何かが変わる日、と思ったのに…。
わたしの唇にふれる晴友くんの指。
息もできないくらいドキドキして、身体がとろけそうなくらい熱くなった。
キスされるって…期待した…。
けど、そんなの甘い妄想だった。
晴友くんの想い人を知ってしまった後、ただのみじめで恥ずかしい記憶になってしまった。
一気に期待が高まって、あっという間に崩れ落ちた。
その痛みはとてもつらくて…高まった分、受けた傷が大きくて…もう涙すら出てこない。
今日はいい日なんかじゃなかった。
きっと、今までの人生の中で一番、最低最悪の日だ…。
はぁ、と晴友くんが苛立たしげに溜息をついた。
「…言っとくけど、カンナの言ったことはデタラメだからな。俺とカンナは本当にただの幼馴染なんだ」
晴友くん…芸能人のカンナさんのことをかばっているんだ…。
晴友くんは不器用だけれど本当はすごくやさしい男の子だ。
住む世界がちがっちゃってイライラしても、やっぱりカンナさんのこと守らなきゃ、って思っているんだ。
だからこうして否定するのも、カンナさんを想ってのことなんだよね…。
いいな…。カンナさんが、うらやましい…。
なんだか、自分がものすごくちっぽけな人間に思えた。
目頭が熱くなって、凍っていた涙腺が溶けだした。
涙がこぼれそうになった。
…晴友くんの前でみっともなく泣けない。
晴友くんが慰めたいと思うのは、カンナさんだけ。
赤の他人でグズでちっぽけなわたしが泣いたって、ウザいって思われるのがオチだ…。
「うん…今日のことは聞かなかったことにするね。晴友くんとカンナさんは、なんでもないんだよね…」
「……」
「…わたし、帰るね。ここまで来たらひとりで大丈夫だから…」
さよなら。
そう告げながら、踵を返す。
もう泣きそうだった。
晴友くんの顔を見ながら『お別れ』なんて、できないよ…。
「待てよ、日菜」
けど、ぐいと乱暴に引き寄せられ、ドンっと背中にひんやりと硬いものが当たった。
コンクリートの壁に押し付けられていた。
思わず見上げると、真っ直ぐに見つめてくる鋭い目と出会った。
「なんで、そんな泣きそうな顔してるんだよ…」
「……」
「そんな顔されたら…勘ちがいしちまうだろうが…。…もう、勘ちがいはイヤだってのに…」
どういう、意味…?
晴友くんは苦しげに眉をゆがめたけれど、ふっとまた真剣なまなざしになった。
「…もういいや」
え…?
「もういい」
きっぱりと言い切った晴友くんのその目に、わたしは囚われたかのように目をそらせなくなる。
胸が痛んだ、きゅっと強く、強く。
「日菜。俺は…ずっと、ずっと前から…」
その時だった。
「日菜…!」
雑踏に混じってわたしを呼ぶ声が聞こえた。
かと思うと、次に目の前で信じられないことが起こった。
バシィッ!!
にぶい音が聞こえて、晴友くんが、殴り飛ばされたから。
男の人に―――ううん。
「お兄ちゃん!?」
晴友くんは、不意の一発によろめきながらも、ぐっと踏みとどまった。
そして、ものすごい形相で、お兄ちゃんをにらんだ―――
けれども、瞬時にその表情がほどけて、次に驚きの表情が広がった。
その表情になる理由を、わたしはよく解かっていた。
だって、さっき晴友くんが熱弁していた『ラ・マシェリ』の二代目こそが、わたしのお兄ちゃん、立花凌輔だったから…。
お兄ちゃんはそんな複雑な立場に置かれた晴友くんの気など知らず、冷やかに言い放った。
「人のかわいい妹をたぶらかすとは、いい度胸だな」
「ちがうのお兄ちゃん…!」
思わずわたしはお兄ちゃんと晴友くんの間に立った。