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サラディンは軍を二つに分けた。
半数を湾岸諸都市の攻略へ向かわせ、
自らは一万の兵を率いて、聖地エルガルドへ進んだ。
その進軍は、はじめ順調に見えた。
だが、モンジールへ近づくにつれ、街道は次第に細くなっていく。
左右には湿地が広がり、馬の蹄は泥を噛んだ。
車輪は沈み、歩兵の足取りは重くなる。
大軍は、広い平原では力である。
だが、この地では違った。
列は長く伸び、前後の連絡は途切れがちになった。
やがて川に差しかかった時、混乱は決定的となる。
渡河を急ぐ兵たちの前に、味方の荷馬車が詰まっていた。
補給のために連れてきたはずの車列が、
今は軍そのものの喉元を塞いでいる。
隊列は細く長くなった
怒号が飛ぶ。
馬が嘶く。
命令は泥と人波の中に消えた。
サラディンは馬上から、その様子を静かに見つめていた。
ここは、広い砂漠ではない。
そしてこの湿地は、
まるで誰かが彼を待ち受けるために用意した罠のようであった。
サラディンは、ふと南の丘陵へ視線を向けた。
砂煙の向こう。
そこに、無数の十字の旗が翻っていた。
湿地に足を取られていた軍勢の空気が、一瞬で変わる。
「――敵襲!」
伝令の叫びが駆け抜けた。
丘の上には、白き軍馬に跨る若き王の姿があった。
病王――ボードウィン。
彼は静かに手を上げると、軍の中央へ巨大な十字架を進ませた。
兵たちがざわめく。
それは“真の十字架”。
かつて聖人が自ら背負い、磔となったと伝えられる聖遺物であった。
ボードウィンは、ゆっくりと馬を降りた。
ただれた顔を白布で隠したまま、
泥に膝をつく。
そして、両手を組み、
天へ向かって祈った。
肩は震えていた。
病に侵され、
命の終わりを知る少年王は、
声を殺して泣いていた。
「……主よ」
「この地を、お守りください」
静寂。
その姿を見た騎士たちの胸に、
熱が走る。
誰かが剣を掲げた。
次の瞬間、
地鳴りのような歓声が湧き上がる。
「おおおおおおお!!」
「聖地のために!!」
「王のために!!」
十字の旗が風を裂いた。
サラディンはその光景を見つめ、
静かに息を呑む。
――まずい。
そう悟った時には、すでに遅かった。
ボードウィンは立ち上がる。
涙を拭うこともなく、
剣を抜いた。
「――突撃!!」
その号令とともに、
丘陵を埋め尽くした騎士団が、一斉に駆け下りた。
まるで、白銀の濁流のように。
「――展開せよ!」
サラディンの怒声が響く。
「敵は右だ! 隊列を立て直せ!」
「馬車は捨てろ!」
将たちは必死に兵を動かそうとした。
だが、湿地に呑まれた軍は、もはや巨大な一つの生き物ではなかった。
怒号。
悲鳴。
馬の嘶き。
荷車は横転し、兵は互いを押し合う。
サラディンの命令は、
泥と混乱の中へ吸い込まれていった。
その時だった。
丘陵の上から、轟くような声が響く。
「――王に続けぇぇぇ!!」
十字の旗が揺れる。
次の瞬間。
重騎兵の群れが、一斉に丘を駆け下りた。
地面が震える。
白銀の鎧が陽光を反射し、
まるで鋼鉄の津波のように迫る。
そして――激突。
凄まじい衝撃とともに、
十字軍騎士団はサラディン軍の右側面へ突き刺さった。
槍が砕け、
盾が割れ、
人馬ごと兵が吹き飛ぶ。
たった一撃で、
右翼の隊列は半ば消し飛んだ。
「退け!」
「逃げろ!」
恐慌は瞬く間に広がった。
だが兵たちは逃げ切れない。
湿地が足を掴んでいた。
馬は泥に沈み、
転倒した兵の上へ次々と人馬が折り重なる。
そこへさらに騎士団が食い込む。
サラディンは剣を抜いた。
「怯むな!!」
親衛隊を率い、
自ら乱戦へ馬を向ける。
このまま崩れれば全軍が壊滅する。
それを理解していた。
やがて各地で散発的な反撃が始まり、
戦場は完全な乱戦へと変わっていく。
泥。
血。
祈り。
怒号。
聖地を巡る戦いは、
もはや誰にも止められなかった。
「あれが――サラディンの親衛隊よ」
丘の上から戦場を見渡していた ボードゥアン4世 は、
乱戦の奥を指差した。
黒き旗。
密集する精鋭。
混乱する軍勢の中でなお崩れぬ一団。
「見つけたぞ……」
白布の奥の瞳が鋭く細められる。
王は剣を掲げた。
「ルノー! バリアン! 行くぞ!」
その声に、周囲の騎士たちが息を呑む。
誰よりも先に、
病める王自身が馬首を敵陣へ向けていた。
「王をお守りしろ!!」
怒号が飛ぶ。
だがボードウィンは止まらない。
白馬が泥を蹴り上げる。
その後ろから、
十字軍最精鋭の騎士団が雪崩れ込んだ。
サラディンの親衛隊も迎え撃つ。
槍が折れ、
剣が火花を散らし、
馬が激しくぶつかり合う。
乱戦の中心で、
王の旗が揺れていた。
「押し返せ!!」
「スルタンをお守りしろ!!」
サラディンもまた剣を振るい、
必死に兵をまとめる。
だが、崩壊は止まらなかった。
右翼はすでに壊滅。
湿地では逃げ惑う兵が将棋倒しとなり、
後方では荷車が退路を塞いでいる。
そしてついに――
親衛隊の隊列が破られた。
「……もはや、これまでか」
サラディンは短く呟いた。
その顔に、焦りはなかった。
ただ、敗北を受け入れる静かな苦みだけがあった。
彼は従者からラクダを引き寄せる。
馬では、このぬかるみを抜けられぬ。
サラディンは素早く乗り移ると、
護衛も待たず単騎で戦場を離脱した。
ボードゥアン4世 は、
沈みゆく夕陽の中でも追撃を止めなかった。
逃げ惑う敵兵を討ち、
湿地を越え、
夜になるまでなお軍を進め続けた。
そして勝利を収めた王は、
ついにアスデスヨへと帰還する。
一方、北部の戦いも
サラディンの敗走の知らせが届くと
その城塞軍は次々降伏していった
だが、その頃――
サラディン にとって、それは地獄の行軍となっていた。
十日間降り続いた大雨は大地を泥海へ変え、
兵たちはずぶ濡れのまま飢えと寒さに震えていた。
馬は倒れ、
荷は捨てられ、
統制は完全に失われる。
そこへさらに、
街道沿いの住民や小部隊による襲撃が続いた。
敗走する軍は、もはや軍ではなかった。
ある者は泥に沈み、
ある者は飢えて倒れ、
またある者は追撃する騎士たちに討たれた。
サラディンは、ほうほうの体で南へ逃れる。
雨はなお降り続いていた。
かつて聖地を震え上がらせた英雄は、
今や泥にまみれ、
ただ生き延びるためだけにラクダを走らせていた。
そして――
イージプトへ帰還できた者は、
わずか二千。
二万を超えていた遠征軍は、
ほとんど消滅していた。
後にこの戦いは、
病める少年王が、
無敗の英雄を打ち破った
神の奇跡として語られることになる。
サラディンは
この戦いで己の慢心を恥じ
アル―の神にその逆襲を誓った