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#糸
#糸
2018年、12月。 都心のホスピタルの最上階。かつて大臣として国を背負った**航(わたる)**は、静かにその時を待っていた。 窓の外には、あの日部室で見たのと同じ、泣きそうな色の夕日が広がっている。
「……どこに、いたの」
掠れた声で、彼は呟く。 その手には、介護施設から届けられた、紺色の糸で「仕合わせ」と刺繍された小さな布の欠片が握られていた。 その糸の感触、不器用ながらも力強い針運び。 航は、一瞬で悟った。 あの日、泥の中に突き飛ばした汚れきった老婆が、自分が一生をかけて探し、そして守れなかった**結(ゆい)**だったのだと。
「……遅すぎたな、俺は」
その時、病室の重い扉がゆっくりと開いた。 車椅子に座り、酸素ボンベを引きずりながら、一人の老女が入ってくる。 深い皺に刻まれた顔。けれど、その瞳だけは、1945年のあの日と同じ、真っ直ぐな光を宿していた。
「……航くん」
結の声は、震えていた。 性奴隷として売られ、心を「ささくれ」だらけにされ、誰にも言えない地獄を抱えて生きてきた。 それでも、彼女は今日まで、一本の糸を切り離さずに生きてきた。
「結……すまなかった。君を、地獄に……」 「いいの。……生きてゆく物語の中で、私を支えてくれたのは、あなたの『縦の糸』だったから」
結は震える手で、航の痩せ細った右手を握った。 かつて軍服を繕った手。今はもう、どちらもボロボロの、古びた糸のよう。
「縦の糸はあなた 横の糸は私」
結ばれることはなかった。 同じ屋根の下で、温かな布を織ることはできなかった。 一人は光の中で、一人はあまりにも深い闇の中で、互いを想い、絶望に震えながら生きてきた。 けれど、二人が別々に織りなしてきた「苦難」という名の布は、今、この病室で重なり合い、お互いの冷え切った体を、何よりも強く温めていた。
「……織りなす布は、いつか誰かの……傷をかばうかもしれない」
航が歌詞をなぞるように、最期の力を振り絞って結の手を握り返す。 結が耐え抜いた地獄も、航が背負った国家の十字架も。 すべては、この一瞬、お互いの存在を確認し合うための「めぐり逢わせ」だった。
「人は、それを仕合わせと呼びます」
航のモニターが、静かに平坦な音を刻み始める。 結は泣かなかった。 ただ、彼の冷たくなっていく手に、自分の頬を寄せた。
「……お疲れ様。……仕合わせだったよ、航くん」
2018年の空に、一筋の飛行機雲が伸びていく。 それは、かつて二人が夢見た「遠い空の下」へと続く、銀色の糸のように見えた。
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