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第8話 月と地球戦争論
光が落ちた先は、砂漠ではなかった。
学校でもなかった。
人の声が、波のように押し寄せてくる場所だった。
駅前広場。
巨大な画面。
行き交う人。
朝の光を受けたビル。
バス停に並ぶ人たち。
パンの袋を持つ学生。
通勤かばんを握る大人。
誰も、月内部の森を知らない。
誰も、枯れた星の記録を知らない。
誰も、自分たちの頭上にある月が、ただの岩ではないことを知らない。
ユウは広場の隅に立っていた。
隣でミハルがリュックを抱え直す。
胸元の接触種子は、熱を持っていた。
リウの声が、頭の奥で短く響く。
ここで止まれ。
ユウは周囲を見た。
「ここ?」
ミハルが小さく聞いた。
ユウはうなずく。
「たぶん」
広場の巨大画面では、朝のニュースが流れていた。
HASAによる緊急会見の予告。
月関連観測異常について。
安全確認中。
市民は冷静な行動を。
画面の下に、そんな文字が流れている。
ミハルの顔から血の気が引いた。
「先に出される」
ユウは歯を食いしばった。
HASAは、また隠す。
少しだけ出して、都合のいい形に変える。
月の森も。
有楽も。
枯れ敵も。
月面着陸の秘密も。
全部を、ぼんやりした異常にしてしまう。
リウの声がした。
今なら戻れる。
ユウは胸元の種を握った。
「戻ったら、また誰かが決める」
ミハルがユウを見る。
「ユウ」
「ぼくたちが全部正しく伝えられるか分からない」
ユウの手は震えていた。
「でも、HASAだけに任せたら、また知らないままになる」
ミハルはノートを開いた。
その一ページには、月内部の森の絵があった。
ざっくりした線。
幹。
水路。
光の川。
有楽の尾羽。
その横に、走り書きの文字。
月の裏側に森がある。
ミハルはノートを閉じた。
「やろう」
ユウはうなずいた。
接触種子を両手で包む。
月面着陸の断片。
HASA会議室の音声。
観察館の記録。
枯れた星の影。
全部が小さな種の中で震えている。
ユウは巨大画面を見上げた。
「リウ」
なんだ。
「映せる?」
沈黙。
リウの声が戻る。
やれば、世界は戻らない。
「もう戻ってない」
今度はセナの声が混じった。
有楽全体の許可は出ていない。
モウの声も低く響いた。
だが、記録は閉じすぎれば腐る。
ユウは息を吸った。
「お願い」
接触種子が強く光った。
広場の巨大画面が一瞬乱れる。
人々が足を止めた。
音が途切れる。
ニュースキャスターの口が止まり、画面に砂嵐のような模様が走る。
そして、月面が映った。
古い映像。
ざらついた画面。
月面探査員が歩いている。
人々がざわめく。
「昔の月面着陸?」
「なんで今?」
「HASAの会見じゃないの?」
画面の端に、緑が映った。
広場のざわめきが変わった。
細い緑。
岩の裂け目。
その奥に見える森。
葉。
幹。
暗い月面の向こうで、確かに揺れているもの。
誰かが声を上げた。
「月に森?」
次に、HASA会議室の映像が流れた。
古い資料。
月内部空洞仮説。
緑反応。
未知の信号。
鳥型生命反応。
有楽接触可能性。
会議室の声が広場に響く。
これは公表できない。
地球の秩序が崩れる。
民間流出禁止。
天体研究の制限。
有人衛星計画の延期。
GPS類似計画の停止。
月再訪計画の凍結。
人々が画面を見上げたまま固まっている。
バスを待っていた人が、手に持っていた紙袋を落とした。
学生がスマホを向ける。
会社員が立ち止まる。
老人が目を細める。
ミハルの指が震えていた。
「出た……」
ユウは接触種子を握りしめた。
映像は続いた。
月内部の森。
巨大な幹。
水路。
光の川。
有楽たちが飛ぶ姿。
灰色を帯びた羽。
緑と黄色の縦じまの尾羽。
リウの姿も映った。
広場に、息をのむ音が広がった。
「鳥?」
「生命体?」
「月の中?」
「嘘だろ」
「作り物だよ」
「でもHASAの資料も出てる」
次に、短い声が流れた。
リウの声だった。
人間は、すべてを知るべき時に来た。
ユウは驚いてリウを見た。
姿はない。
けれど声だけが、巨大画面から流れている。
月内部には有楽世界がある。
我々は地球を観察してきた。
森を守るために種を送り続けてきた。
だが、人類を完全には信用していない。
広場の空気が凍った。
その一文が、鋭く人々に刺さったのが分かった。
ミハルが小さく言った。
「リウ、正直すぎる」
ユウもそう思った。
でも、止められなかった。
リウの声は続く。
人間には悪い者もいる。
良い者もいる。
有楽はそれを知っている。
だから見捨てていない。
だからこそ、隠された真実を見せる。
画面が切り替わる。
人類観察館の記録。
森林破壊。
戦争。
絶滅。
環境保護。
苗を植える手。
火を消す人。
川のごみを拾う子どもたち。
森を切る機械。
動かなくなった生き物。
泣く人。
笑う人。
助ける手。
奪う手。
全部が一瞬ずつ流れていく。
人々の顔が変わっていく。
怒り。
恐れ。
困惑。
恥ずかしさ。
疑い。
誰かが叫んだ。
「勝手に観察してたのか!」
別の誰かが叫ぶ。
「月が監視してたってこと?」
「侵略準備じゃないのか!」
「HASAは何してた!」
「本物なのか!」
広場のざわめきが大きくなる。
ユウは足がすくみそうになった。
自分が起こした波が、もう手の届かないところへ広がっていく。
ミハルがユウの袖を握った。
「来る」
その言葉の通りだった。
広場の向こうから、灰色の車が何台も入ってくる。
HASAの印。
人々が道を開ける。
車から職員が降りる。
その中心に、HASA広報官がいた。
整った髪。
灰色のスーツ。
胸の小さなバッジ。
男は巨大画面を見上げた。
それから、まっすぐユウを見た。
笑っていた。
目だけは笑っていなかった。
「日向ユウさん」
声は人混みを越えて届いた。
「それを止めなさい」
ユウは接触種子を握った。
「止めたら、また隠しますよね」
男の笑みが薄くなる。
「世界の混乱を避けるためです」
「知らないままにするためじゃなくて?」
広場の何人かが、ユウを見る。
スマホが向けられる。
ミハルが息をのむ。
男はゆっくり歩いてくる。
「あなたは自分が何をしているのか分かっていない」
「分かってないです」
ユウは言った。
声は震えていた。
でも、止まらなかった。
「でも、HASAだけが分かってることにして、みんなから隠すのは違う」
男の足が止まる。
巨大画面では、有楽世界の森が映り続けている。
水路。
枝。
光。
有楽の群れ。
そして、月の裏側から見た地球。
男は低い声で言った。
「月の文明が敵でないと、誰が保証しますか」
その言葉で、広場のざわめきが変わった。
「敵?」
「月と戦争?」
「有楽っていうのは安全なのか?」
「地球を監視してたんだろ」
「HASAも隠してたけど、月も隠れてた」
ミハルが顔をこわばらせる。
ユウは答えようとした。
しかし、リウの声が先に響いた。
保証はできない。
広場が静まった。
ユウは思わず胸元を見た。
リウ。
リウの声は淡々としていた。
有楽は人類の味方ではない。
敵でもない。
森を守る者だ。
人類が森を守るなら、共に動く。
人類が森を壊すなら、止める。
それだけだ。
沈黙。
それから、一気に声が弾けた。
「じゃあ敵だ!」
「止めるって攻撃するってことか!」
「月が地球に命令するのか!」
「地球は人間のものだろ!」
「いや、HASAが隠してたのが悪い!」
「有楽は森を守ってきたんだろ!」
「信用できるか!」
「月と地球戦争だ!」
その言葉が、広場のどこかから飛んだ。
月と地球戦争。
たった一言。
でも、その一言は火の粉みたいに人々の口へ移った。
月と地球戦争。
月と地球戦争論。
月は敵か。
地球は攻撃されるのか。
有楽は侵略するのか。
HASAは何を隠したのか。
人類はどうするべきか。
ユウは、言葉が広がる音を聞いた気がした。
広場からスマホへ。
スマホから通信網へ。
通信網から世界へ。
見えない根のように、言葉が走っていく。
HASA広報官は、その流れを見ていた。
そして、ほんの少し笑った。
ユウは気づいた。
男は、これを待っていたのかもしれない。
有楽への恐れ。
月への疑い。
HASAへの怒りを、有楽への敵意へすり替える瞬間。
リウの声が低くなる。
まずい。
ミハルが叫んだ。
「ユウ、画面!」
巨大画面がまた乱れた。
今度は接触種子の光ではない。
別の干渉。
砂のようなノイズ。
画面いっぱいに乾いた地平が映る。
砂漠。
岩。
そして、巨大な殻。
カラザだった。
広場から悲鳴が上がる。
カラザの目が画面の奥から人々を見た。
乾いた石のような目。
声が、広場に響く。
人間よ。
おまえたちは見た。
月の者は、おまえたちを信用していない。
有楽は森のためなら、人間を止める。
広場の空気がさらにざわつく。
HASA広報官の表情も、わずかに変わった。
これはHASAの操作ではない。
カラザの干渉。
枯れ敵が、公開された真実に乗ってきたのだ。
カラザの声が続く。
我らは知っている。
人間は自然を変える。
人間は広げる。
人間は壊す。
それは悪ではない。
本能だ。
ユウは奥歯を噛んだ。
「違う」
でも声は広場の騒ぎに飲まれた。
カラザは続ける。
有楽はおまえたちを観察対象とした。
HASAはおまえたちから真実を隠した。
ならば、人間は誰を信じる。
月か。
隠蔽者か。
それとも、自分の本能か。
ミハルが震える声で言った。
「誘導してる」
リウの声が鋭くなる。
カラザ、切れ。
カラザは画面の中で殻をわずかに傾けた。
有楽リウ。
また人間に期待するのか。
人間は、おまえたちの森すらいずれ切る。
広場の人々は、何が起きているのか分からず混乱していた。
HASA。
有楽。
枯れ敵。
三つの声が、一つの画面でぶつかっている。
ユウは接触種子を握った。
熱い。
痛いほど熱い。
「リウ、カラザの声を切れないの?」
干渉が強い。
セナの声が混じる。
公開経路を使われている。
ミハルがノートを開いた。
「じゃあ、こっちも言葉を出すしかない」
「誰が」
「ユウ」
ユウはミハルを見た。
「ぼく?」
「最初に出したの、ユウでしょ」
「でも」
「完璧じゃなくていい。今、黙ったら、全部カラザとHASAに持っていかれる」
ユウは広場を見た。
叫ぶ人。
泣きそうな子ども。
スマホを向ける人。
HASA職員。
巨大画面のカラザ。
胸元のリウ。
ミハルの震える手。
全部が、ひとつの瞬間に集まっていた。
ユウは接触種子を両手で包んだ。
「映して」
リウの声。
言葉を選べ。
「分かってる」
接触種子が光る。
巨大画面の端に、ユウの姿が映った。
広場の人々が一斉に振り向く。
HASA広報官の目が細くなる。
カラザの声が一瞬止まる。
ユウは息を吸った。
声が震える。
それでも言った。
「ぼくは、日向ユウです」
広場が静まる。
「月の裏側に森があることを知りました。有楽に会いました。枯れ敵にも会いました。HASAが隠していた記録も見ました」
ミハルが隣で小さくうなずく。
ユウは続けた。
「有楽は、人間を全部信用しているわけじゃありません。ぼくも、それを聞いて嫌でした」
リウは黙っている。
「でも、有楽は人間を全部見捨ててもいません。森林破壊も、戦争も、絶滅も見てきた。それでも、環境を守ろうとした人たちも見ていました」
画面に観察館の記録が少し映る。
苗を植える手。
川を掃除する人。
燃えた土地に水を運ぶ人。
「枯れ敵は、外から来た難民種族です。故郷を失って、無重力空間を放浪して、地球に来ました」
広場のざわめきが少し変わる。
「でも、枯れ敵は人間を自然破壊生物だと決めています。人間は必ず壊すと考えています。そして、その力を利用しようとしています」
カラザの目が画面の中で細くなる。
ユウはそちらを見た。
「ぼくは、それも嫌です」
声が少し強くなった。
「有楽に監視対象みたいに見られるのも嫌だし、HASAに隠されるのも嫌だし、枯れ敵に本能だって決めつけられるのも嫌です」
広場が静かになった。
ユウは拳を握る。
「でも、怒るだけじゃだめだと思う。ぼくたち人間は、本当に壊してきたから。森を切ったし、川を汚したし、知らないふりもしてきたから」
誰かが目を伏せた。
誰かが舌打ちした。
誰かがスマホを下げた。
「だから、月と地球の戦争って言葉だけで決めないでください」
ユウは巨大画面を見上げた。
「有楽が敵か味方か。枯れ敵が悪かどうか。HASAが全部正しいかどうか。そんなふうにすぐ決めたら、また誰かに利用される」
ミハルの目が揺れていた。
ユウは最後に言った。
「まず、見てください。隠されていたものを。月の森を。HASAの記録を。枯れ敵の言葉を。人間が壊したことも、守ったことも」
接触種子が熱を増す。
画面に、月内部の森が広がる。
次に、枯れた星の記録が少し映る。
乾いた集落。
脱出する殻の船。
無重力空間を漂う影。
そして、人類観察館の葉。
「見てから、考えてください」
ユウの声はかすれた。
「ぼくも、まだ考えてます」
そこで画面は揺れた。
HASA職員が機材を操作している。
広報官が低く命じる。
「止めろ」
カラザの声が重なる。
人間は迷う。
迷いながら壊す。
リウの声が響く。
迷わぬ者ほど危うい。
三つの声がぶつかり、巨大画面が乱れる。
広場の人々が後ずさる。
誰かが叫ぶ。
「結局、月は敵なのか!」
「HASAを信じるな!」
「枯れ敵って何だ!」
「地球はどうなる!」
「戦争になる!」
「月と地球戦争論だ!」
その言葉は、もう止まらなかった。
画面が消えても、人々の口に残った。
駅前広場だけではない。
周囲のビルの画面にも、同じ映像が流れたらしい。
遠くの通りからも騒ぎが聞こえる。
スマホの通知音が一斉に鳴り始める。
ミハルのスマホにも、次々と通知が出た。
月内部に森?
HASA隠蔽疑惑。
鳥型生命体、有楽とは。
月と地球戦争論が急浮上。
謎の砂漠生命体が通信に割り込み。
世界中の翻訳掲示板で拡散。
ミハルは画面を見て、息をのんだ。
「広がってる」
ユウは足元が揺れた気がした。
自分たちが投げた石は、もう池ではなく海に落ちた。
波は世界中へ広がっている。
止められない。
HASA広報官が近づく。
周囲の職員が人混みを押し分けてくる。
「日向ユウさん、長瀬ミハルさん。あなたたちは保護対象です」
ミハルが小さく言う。
「保護って言い方、ほんと便利」
ユウは接触種子を握った。
リウ。
分かっている。
足元に緑の線が走る。
だが、HASAの機械がすぐに反応した。
広場の床に、小さな装置が投げ込まれる。
緑の輪が乱れる。
ユウの体が傾いた。
ミハルが支える。
「妨害されてる!」
セナの声が届く。
地球側の干渉が強い。
モウの声。
人混みを抜けろ。
リウが続ける。
地下へ。
「地下?」
ユウは周囲を見た。
駅の入口がある。
階段。
人が押し寄せている。
HASA職員も近い。
「ミハル、走る」
「うん!」
二人は人混みの間を走った。
背後で広報官の声がする。
「追いなさい」
人々の声。
足音。
スマホの光。
月と地球戦争。
有楽。
HASA。
枯れ敵。
言葉が飛び交い、駅前広場はもう朝の顔をしていなかった。
ユウとミハルは階段を駆け下りる。
地下通路には人が少なかった。
店のシャッターは半分閉まっている。
天井の照明が白く、いや、言葉を飲み込んで、ユウは明るい人工光の下を走った。
胸が痛い。
息が切れる。
ミハルのリュックが揺れる。
曲がり角を曲がると、壁の画面にもニュースが映っていた。
有楽存在公開。
HASA、緊急声明準備。
各国が情報確認へ。
月と地球戦争論、専門家らが警戒。
ユウは立ち止まりかけた。
「もう専門家って誰だよ……」
ミハルが息を切らしながら言った。
「誰も専門家じゃないよ、こんなの」
その時、壁の画面がまた砂のノイズに覆われた。
カラザの声が短く響く。
人間よ。
有楽はおまえたちを止める。
HASAはおまえたちを隠す。
我らはおまえたちを否定しない。
おまえたちが壊す力を、力として認める。
ミハルが画面へ向かって叫んだ。
「認めてるんじゃなくて利用してるだけでしょ!」
通行人が驚いて振り向く。
ユウはミハルの手を引いた。
「行こう!」
地下通路の奥で、緑の光がまた走った。
今度は細い。
排水溝のふたの下。
接触種子が反応する。
リウの声。
そこだ。
ユウはふたの前にしゃがんだ。
「ここ?」
ミハルが周囲を見る。
「HASA、来るよ」
背後から足音が増えている。
ユウは接触種子をふたへ押し当てた。
緑の光が排水溝の中へ流れる。
水のにおい。
鉄のにおい。
暗い通路。
月内部の水路とつながるように、光が伸びていく。
足音が迫る。
HASA職員が角を曲がった。
「いたぞ!」
ミハルがユウの肩をつかむ。
「早く!」
光が開く。
二人は排水溝の暗がりへ落ちるように吸い込まれた。
次に聞こえたのは、水の音だった。
月内部の水路。
二人は草の岸に転がった。
ユウは咳き込み、ミハルはリュックを抱えて横になった。
リウがすぐ近くに降りる。
「無事か」
「無事……かな」
ユウは空を見上げた。
月内部の光の川が揺れている。
でも森の空気も落ち着いていなかった。
有楽たちが飛び交い、遠くの観測塔が鳴っている。
セナが駆け寄る。
「公開された」
ミハルが起き上がる。
「どこまで?」
セナは観測板を開いた。
そこには地球の地図が映っていた。
各地で光の点が増えている。
大都市。
港。
研究施設。
学校。
市場。
家庭。
人々が映像を見ている。
議論している。
怒っている。
泣いている。
笑っている者もいる。
恐れている者もいる。
画面の端には、世界中の言葉が流れていた。
月は敵か。
有楽とは何者か。
HASAの隠蔽を許すな。
月内部の森は本物か。
地球を守る文明か、監視者か。
枯れ敵の発言をどう見るか。
月と地球戦争論。
ユウは座り込んだまま、それを見た。
「こんなに……」
モウがゆっくり現れた。
濃い灰色の羽が、森の光を受けて重く揺れる。
「人類は、知った」
その声は静かだった。
怒っているのか、悲しんでいるのか、分からない。
リウはユウを見た。
「これで、有楽も隠れてはいられない」
ユウはうなだれた。
「ごめん」
リウは少しだけ首を傾ける。
「なぜ謝る」
「有楽の許可、全部取ってないのに」
セナが言った。
「事実だ」
ユウの胸が痛む。
だがモウが続けた。
「隠れ続けることも、もう限界だった」
ユウは顔を上げた。
モウは観測板を見ている。
「HASAが動き、枯れ敵が動き、人間の接触者が現れた。どの道、閉じたままではいられなかった」
ミハルが小さく言った。
「でも、世界が混乱してる」
リウが答える。
「真実は、静かに入ることばかりではない」
観測板の中で、人々の声が増えていく。
有楽を歓迎する集まり。
月に抗議する集まり。
HASA本部前に押し寄せる人々。
月へ攻撃手段を持つべきだと叫ぶ人。
月と交渉すべきだと訴える人。
有楽の森を守るべきだと書いた紙を掲げる子ども。
枯れ敵の言葉に共感する者。
人間の発展を止めるなと叫ぶ者。
ユウは頭を抱えた。
「めちゃくちゃだ」
ミハルはノートを開いた。
手が震えている。
でも書き始める。
「でも、これが人間なんだと思う」
ユウはミハルを見る。
ミハルは観測板を見ながら言った。
「怒る人もいる。怖がる人もいる。信じる人もいる。疑う人もいる。利用しようとする人もいる。守ろうとする人もいる」
観察館で見た葉と同じだった。
壊す手。
守る手。
隠す手。
差し出す手。
人間は一つではない。
その複雑さが、今、世界中で一気に表に出ている。
セナが低く言った。
「世界各地で、月と地球戦争論が広がっている」
リウは目を細める。
「枯れ敵はそれを望む」
ユウはカラザの画面を思い出した。
有楽への不信。
HASAへの怒り。
人間の本能を肯定する言葉。
あれは、人類に向けた罠でもあった。
「HASAはどう動く?」
ミハルが聞いた。
モウが観測板を動かす。
HASA本部が映る。
建物の前に人が集まっている。
警備員。
報道車。
怒鳴る人々。
その上に、緊急会見の文字が出ている。
HASA広報官が壇上に立っていた。
先ほどまで駅前にいたはずなのに。
映像越しの男は、相変わらず整った姿だった。
灰色のスーツ。
胸のバッジ。
笑みは消えている。
しかし目は、やはり動かない。
画面の中で男が話し始める。
本日、無許可の映像干渉により、未確認情報が世界中へ拡散しました。
HASAは市民の安全を最優先に、月関連情報を管理してまいりました。
月面着陸記録の一部については、当時の混乱を避けるため、限定的な保全措置を行った事実があります。
ミハルが叫んだ。
「限定的って何!」
リウが低く言う。
「言葉を薄めている」
男の会見は続く。
現在、月に存在する可能性のある未知文明について、安全保障上の重大な懸念があります。
市民の皆さまは、未確認生命体からの通信を受け取らないでください。
月と地球の関係について、各国と協議を開始します。
ユウは拳を握った。
「有楽を危険扱いしてる」
セナが静かに言った。
「予想通りだ」
会見場で記者が叫ぶ。
月に森はあるのですか。
HASAは何十年も隠していたのですか。
有楽は敵ですか。
月は侵略するのですか。
枯れ敵とは何ですか。
地球は攻撃されますか。
月と地球戦争論について、HASAの見解は。
広報官は息を整えた。
現時点で、あらゆる可能性を排除しません。
その一言で、観測板の中の世界がさらにざわめいた。
あらゆる可能性。
つまり、戦争も。
侵略も。
交渉も。
すべてを含む言葉。
ミハルはノートを閉じた。
「これ、火に油だよ」
モウが言った。
「恐れは、早く燃える」
リウはユウを見た。
「日向ユウ。おまえは世界へ石を投げた」
ユウは体をこわばらせた。
リウは続ける。
「次は、波を見ることになる」
ユウは観測板を見た。
世界中へ広がる議論。
怒り。
不安。
希望。
疑い。
その全部が、波だった。
止められない波。
でも、見ないわけにはいかない。
「ぼく、間違えたのかな」
声は小さかった。
ミハルがすぐに言った。
「間違えたかどうか、まだ決めない」
ユウはミハルを見る。
「まだ決めない。見て、考えて、動くんでしょ」
ミハルの声も震えていた。
でも、その言葉はまっすぐだった。
リウが小さく羽を整える。
「よく覚えている」
セナが観測板を切り替えた。
「次に危険なのは、三つ」
画面に三つの光が出る。
HASA本部。
砂漠地帯。
そして、ユウたちの学校。
ユウは目を見開く。
「学校?」
セナが言った。
「接触地点として、世界中に場所が漏れた」
ミハルが息をのむ。
「みんなが来る?」
「HASAも、報道も、興味本位の者も、枯れ敵の影響を受けた者も」
ユウは校舎裏の畑を思い浮かべた。
トマトの支柱。
湿った土。
あの小さな場所に、世界の視線が集まる。
それは、怖かった。
「戻らないと」
ミハルが言った。
「学校に?」
「友だちも先生もいる。何も知らないまま巻き込まれる」
ユウはうなずいた。
リウが鋭く言う。
「危険だ」
「分かってる」
「今の地球は、公開前とは違う」
「でも、ぼくたちの場所だから」
リウは黙った。
セナが観測板を見つめる。
「学校周辺に人が集まり始めている」
モウが低く言った。
「人間の始まりの場所は、すぐに祭り場にも争い場にもなる」
ユウは立ち上がった。
膝が少し震えている。
でも、立った。
「行く」
ミハルも立つ。
「私も」
リウは二人を見た。
「わたしも中継で行く」
セナが接触種子へ光を送る。
「地球側の干渉が強い。長くは保たない」
モウはユウに近づいた。
「日向ユウ」
「はい」
「公開した者は、公開された者にもなる」
ユウは息を止めた。
「今度は、おまえが観察される」
観察対象。
第5話で見た葉の言葉が戻ってくる。
有楽が見ていた人類。
今度は世界中がユウを見る。
信じる者もいる。
疑う者もいる。
憎む者もいる。
利用する者もいる。
ユウは接触種子を握った。
「それでも、戻ります」
モウはうなずいた。
「なら、記録に残る」
緑の輪が足元に広がる。
ミハルがユウの袖を握る。
リウの声が、胸元で静かに響く。
次は、地球の混乱を見る。
ユウは目を閉じなかった。
月内部の森が遠ざかる。
光の川。
有楽たち。
水路。
種子保管庫。
そのすべてが、世界へ知られてしまった。
もう月の森は、隠された場所ではない。
次の瞬間、二人は学校の近くに立っていた。
しかし、そこはもう知っている学校ではなかった。
校門前に人が集まっている。
報道用のカメラ。
叫ぶ人。
看板を持つ人。
月に謝れと書く者。
月を信じるなと書く者。
HASAを追及せよと叫ぶ者。
有楽を出せと叫ぶ者。
道路には車が詰まり、警備員が押し返している。
校舎の窓から、生徒たちが不安そうに外を見ている。
ミハルが息をのんだ。
「こんなに早く……」
ユウは校舎裏の畑の方向を見た。
あそこが、すべての始まり。
だが今は、世界の混乱の中心になっていた。
人混みの向こうで、誰かがユウに気づいた。
「あの子だ!」
声が広がる。
「映像の子!」
「日向ユウ!」
「有楽と接触した子!」
「本物か!」
「月は敵なのか!」
「HASAは何を隠してる!」
「枯れ敵って何だ!」
人々が押し寄せる。
ミハルがユウの腕をつかむ。
接触種子が熱くなる。
リウの声が響く。
走れ。
ユウは走り出した。
校門の横。
フェンス沿い。
見慣れた通学路。
けれど、そこに日常はもうなかった。
月の裏側に森がある。
たったそれだけの真実が、地球の朝を別のものに変えていた。
そしてその朝は、もう誰にも止められなかった。
コメント
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読了しました…🌙 第8話、もう情報が世界にバレてしまった後の混乱がすごくリアルで、息が止まるような感覚でした。 ユウが広場で「まず見てください」って言ったところ、すごく刺さりました。正しさを押し付けるんじゃなくて、自分もまだ考えてるって言うのが、逆に誠実で。 ミハルの「これが人間だと思う」って言葉も、読んでてすごく腑に落ちました。 日常が一瞬で変わってしまう怖さと、それでも戻るって決めたユウの強さ、ちゃんと沁みてます。 次、どうなっちゃうんだろう…更新待ってます🥀