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松村北斗
佐伯さんが亡くなったと聞いたのは、ついさっきのことだった。
焦る気持ちで仕事を終わらせ、足早に医局を出る。
なぜか樹のことが気になっていた。
少し久しぶりに行く救急センター。そのスタッフステーションをのぞき、
「田中先生いますか」
と声を掛ける。が、近くにいた医師は見ていないと答えた。
落胆して帰ろうと思ったが、ふと隣の休憩室の前で立ち止まる。もしかしたら、とそっとドアを開けてみると、ベンチに座っている樹を見つけた。
その背中は小刻みに震えていた。
「樹」
声に気づき、はっと顔を上げる。「北斗…」
中に足を踏み入れ、樹の肩をさする。
「聞いたよ、佐伯さんのこと。やっぱ助かってほしかったよね…」
「うん……」
その声も弱々しい。
「北斗は、なんで泣いてないの…? 悲しくないの? いつもそうだよね、ジェシーとか慎太郎が担当患者を亡くして泣いてるときも、澄ました顔して」
突然自分に矛先が向いた言葉は、無情にも胸をえぐっていく。
「俺の気持ち、きっとわかんないよね…」
樹は横を通り抜けて、部屋を出て行ってしまった。
初めて、2人の間に壁を感じた。
でも、その壁はもともと無かった。だから、今壊さなければ。わかってもらわなくては。
「樹、待って!」
廊下の少し先に、すたすたと歩いていく後ろ姿を見つけた。振り返ることはない。走って追いつき、スクラブの袖をつかんだ。
「なんだよ」
つっけんどんに言う。
「違う、違うんだよ。俺、泣けないんだよ…」
少し走っただけなのに、ちょっと息が切れた。膝に手をつき、精一杯心の内を吐露する。
「あのときから、悲しいっていう感情が欠落してるのかもしれない。自分の手によって人が命を落としたっていう事実が、怖くて仕方がなかった。だから人が亡くなったことに同情したら、また怖くなって、心がおかしくなるんじゃないかって思って。そんなの、医師としてダメだよな…」
「――ううん、違う。…俺こそごめん、無神経なこと言った。北斗のこと、よくわかってるつもりだったのに。それこそ、医師なんていちいち悲しんでられないんだから。北斗の性格もあるし。いいんだよ」
優しい目で見つめられると、なんだか照れてしまう。
すると、お決まりのPHSの音が雰囲気を壊す。
2人でポケットをまさぐると、鳴っていたのは樹のものだった。
「俺だ。…はい、あーはい。今行きます」
半ば適当な返事をし、「じゃあ行ってくるわ」
笑いかけ、踵を返した。
人の命をこの手で救う。俺が逃げ出した使命を、樹は今背負っている。
頑張って患者助けろよ!
走り去っていく背中に、心の中で叫んだ。
田中樹
重症患者をなんとか処置し、少しヘロヘロになりながら帰り支度をする。
今日は夜はないからたまには飲みたいな、なんて思っていると、どこからか聞きなれた声がした。
「おーい樹ー!」
振り返ると、慎太郎が駆けてくるところだった。腕に白衣を掛けている。
「なんで白衣持ってんの」
ついつい突っ込んでしまう。
「いやちょっと洗濯しようと思って。それより樹、これから飲みに行かない?」
「えー」
「だって樹と行ったことないもん」
「そうかなぁ。…まあいいよ」
やったー、と子どもっぽいリアクション。
慎太郎の行きつけの日本酒居酒屋に行くことになった。
「やってます?」
往年のドラマみたいな入り方でのれんをくぐり、声をかける。
「おおいらっしゃい、ドクター。今日はお2人か。お好きな席にどうぞ」
カウンター席に2人で座る。
「なんでドクターなの」
と小声で聞くと、
「最初来たときに医者やってるって言ったら、勝手にそうなったんだよ」
と小声で返ってきた。
「じゃあ信濃鶴で」
慎太郎がカウンターの向こうの大将に注文する。なぜ長野なのかと思ったが、メニューを見てぎょっとした。
日本酒しか置いていなかった。いや、日本酒居酒屋なのだから当たり前だ。
俺はワインなどの洋酒が好きだから、あまり分からない。慎太郎と同じものを頼んだ。
「っていうかなんで俺と?」
「いやー他の人は断られて」
「じゃあ同じ科の人と行けばいいのに」
「俺は気心の知れた友人がいいんだよね」
笑顔をつけてそこまで言われたら、反論できない。
「はいはい。……まあ俺もちょっと飲みたい気分だったから」
「あ、そうなの?」
「なんか悲しいっていうか、感情移入しちゃって」
「そっか…」
薄暗い灯りに照らされた横顔は、少しもの悲しい。
「佐伯さんが遊んでくれた担当患者の子にどう伝えようかなって。あえて言わないでおこうかな」
「え、なんで?」
「…あの子ももうすぐ旅立つから」
じわじわと胸に広がる苦い気持ちを、慣れない日本酒で流し込む。
「ああうめえ」
さっきの寂しそうな表情はどこへやら、慎太郎は旨そうにグラスをあおっている。
「でも樹が初療の患者以外で悲しいなんていうの、珍しいな」
「だから」
また涙腺が緩みそうで、意図せずに声が強くなってしまう。
「兄ちゃんに……重なって…」
「ごめん、思い出させちゃったな。悪い」
ううん、と首を振る。
「樹はよく頑張ってるよ。夜でも、1人でも助けようと奮闘してる。俺はお前を誇りに思う」
「……やめろよ泣くじゃねーかよ」
「ははは笑」
店を出たときには、すっかり真夜中だった。
「じゃあゆっくり寝て休みなよ。明日もあるだろ」
「樹もでしょ」
じゃあまたな、と挨拶を交わして別れた。
続く