テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
第十四章 月が導く先
第七話 レオルの手記 前編
静まり返った宿屋の一室で、ジントは手記の最初のページを見つめていた。
『この手記を親愛なるルナへ捧ぐ』 『レオル・ウォレッド』
その名を見た瞬間から、胸の奥が不思議なほど震えている。
ーールナ。
夢の中で、遠くからこちらを見つめていた黒髪の少女。
寂しそうに笑っていた少女。
ジントは涙を拭うことも忘れたまま、ゆっくりと次のページをめくった。
乾いた紙が、かすかに音を立てる。
4人も言葉を発しなかった。
ただジントの傍で、その古い記録が開かれる瞬間を見守っていた。
ーーー
五十年ほど前、私はソレイユ帝国の兵士だった。
城下町の平民の家に生まれた私だが、生まれつき魔力が強かったらしい。十五の時、その力を見込まれ、帝国直属の剣士や魔導師を育成する学校へ入学することとなった。
だがそこは、私のような平民が歓迎される場所ではなかった。
貴族の子息達は露骨に私を見下し、陰湿な嫌がらせも少なくなかった。幸い剣術の才にも多少恵まれていたようで、成績だけは優秀だったが、それがまた彼らの癪に障ったのだろう。
それでも私は耐えた。
いつか皇室直属の騎士となり、この国を守る誇り高き剣になれると信じていたからだ。
しかし現実は違った。
卒業後、私に与えられたのは城外警備という、言ってしまえば“都合の良い”捨て駒”のような役目だった。
あの頃は若かった。ひどく落胆もした。
だが五年も経てば、人はそれなりに現実と折り合いを付ける。
城下を巡回し、森の魔物を警戒し、時には旅人の揉め事を仲裁する。派手さはなくとも、やりがいのある仕事だった。
そんな頃だった。
帝国近辺で、奇妙な噂が流れ始めた。
「黒い少女を見た」
「影を操る化け物がいた」
酒場の怪談話のような内容だったが、私は笑えなかった。
ここ最近、帝都周辺で不可解な魔物の出現が増えていたからだ。
本来、ソレイユ帝国の中心部には太陽の加護が満ちており、魔物は滅多に近付かない。
それなのに、街中で突然現れた、森で人を襲った、そんな報告が相次いでいた。
その夜は満月だった。
私は数名の兵士を連れ、城下外れの森周辺を警備していた。
空気が異様だった。
まるで森そのものが息を潜めているような静けさだった。
その時、森の奥から男達の叫び声が響いた。
血相を変えた旅人達が飛び出してくる。
「黒い化け物がいた!」
私は咄嗟に剣へ手を掛け、暗闇へ目を凝らした。
そして、見てしまった。
月明かりの下。
そこに、一人の少女が立っていた。
長い黒髪は夜より深く、漆黒の瞳は満月を映して静かに煌めいていた。
少女の周囲では、影が蠢いていた。
地を這い、木々を伝い、まるで生き物のように少女へ吸い寄せられていく。
少女はそれを、ただ静かに受け入れていた。
あの瞬間の感覚を、私は今でも忘れられない。
恐ろしかった。
全身の血が凍るようだった。
だが同時に、どうしようもなく目を離せなかった。
少女はこちらを振り向いた。
遠く離れていたはずなのに、確かに目が合った気がした。
その瞳には魔物のような狂気はなかった。
ただ、深い夜のような静けさだけがあった。
私は我に返り、叫んだ。
「捕らえろ!」
兵士達と共に少女を取り囲む。
しかし既に周囲の闇は消えていた。
残っていたのは、ただ一人佇む少女だけだった。
感情の読めない顔だった。
「私は何もしないわ」
少女は透き通る声でそう言った。
私は警戒しながら近付き、縄を掛けようと手を伸ばした。
すると少女は、初めて感情を見せた。
「私に触れてはいけない」
低く、強い声だった。
次の瞬間。
少女の身体から黒い触手のような影が伸びた。
私は反射的に手を引っ込める。
兵士達が悲鳴を上げ、後退る。
しかし少女は静かに言った。
「抵抗はしないわ」
そうして、自ら歩き始めた。
少女は地下牢へ連行された後、北の幽閉塔へ移された。
私はそこで見張り役を命じられた。
まったく、私はつくづく“丁度良い駒”だったのだろう。
塔の最上階。
薄暗く湿った石の部屋。
小さな窓から差し込む光だけが、少女の姿を照らしていた。
私は日に三度、鉄格子越しに彼女の様子を確認する役目を与えられた。
最初の頃、少女はほとんど動かなかった。
窓の外を見つめるか、膝を抱えて座っているだけだった。
それでも私は、次第に奇妙な感情を抱くようになっていた。
恐怖ではない。
憐れみだった。
ある日、私はついに声を掛けた。
「なあ」
少女がゆっくり振り向く。
「名前は?」
しばらく沈黙があった。
やがて少女は、小さく答えた。
「……ルナ」
その声は、驚くほど静かだった。
ーーー
ジントの指が、そこで止まった。
「……ルナ……」
もう一度、その名を小さく呟く。
声にした瞬間、胸の奥が強く締め付けられた。
知らないはずの名前。
けれど、ずっと胸の奥に眠っていた名前。
ダイチが隣で、そっとジントの顔を覗き込む。
「……大丈夫か?」
ジントは少しだけ涙を拭い、頷いた。
「……うん」
けれど視線は、手記から離せなかった。
ハヤトも何も言わず、静かに手記を見つめていた。
ジュウタロウは目を伏せ、シュンタも珍しく口を挟まなかった。
古い手記の中で、ようやく少女の姿が明かされた。
ーールナ。
それはもう、ただの伝承でも、化け物でもなかった。
かつて確かにそこにいた、ただの一人の少女だった。
静かな波の音だけが、遠くから微かに聞こえる気がした。
宿屋の一室には、誰の声もなかった。
ジントは机の上に置いた手記へ視線を落としたまま、ゆっくり次のページをめくる。
古い紙は少し黄ばんでおり、端は擦り切れていた。
それでも不思議なほど丁寧に保存されていたことが分かる。
まるで、この記録だけは絶対に失われてはいけないと、誰かが願ったかのように。
ジントは小さく息を吸い、再び読み始めた。
ーーー
それから私は、時々ルナへ話し掛けるようになった。
本当は良くないことだった。
だが、あの塔で彼女を完全な化け物だと思い続けることは、私にはできなかった。
私は色々なことを聞いた。
「どこから来たんだ?」
「私は闇から生まれた」
「人間じゃないのか?」
「ええ……」
ルナはいつも淡々としていた。
「いつも何をしてるんだ?」
「闇を月へ還す。それが私の役目」
私にはよく分からなかった。
私の目に映るのは、ただ一人の寂しそうな少女でしかなかった。
それからも私は、他の監視に見つからないよう密かに交流を続けた。
外の景色を話したこともある。
くだらない愚痴を聞かせたこともあった。
ルナはいつも静かに聞いていた。
けれど少しずつ、その表情が柔らかくなっていくのが分かった。
ある日、塔の近くに咲いていた一輪の花を渡した時のことだった。
ルナは花を受け取ると、初めて笑った。
「ありがとう」
あの笑顔を、私は生涯忘れないだろう。
ーーー
ジントの視界が滲む。
まるで遠い記憶が、自分の中へ流れ込んでくるようだった。
しばらく沈黙が続いた後、ジントは再び視線を落とす。
ーーー
だが満月が近付いてきたある日、ルナは突然私へ言った。
「……帰らなければ」
「帰る?」
「ここでは役目を果たせない……」
私は意味が分からず聞き返した。
「どこへ帰るんだ?」
ルナは小さな窓から見える巨大な山を指差した。
「……白霧山?」
遠くに見えるその山を、ルナはじっと見つめていた。
しかし私には、彼女をそこへ連れて行く力などなかった。
次の日も、その次の日も。
ルナは私へ訴え続けた。
「帰りたい」
「このままでは危険」
「ここから出してほしい」
私は上司へ事情を伝えた。
だが返ってきたのは、冷たい沈黙だけだった。
私は、自分の無力さを呪った。
ーーー
そこでジントの手が止まる。
ーー白霧山。
その名を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
白霧山と月の隠れ里で見た石碑を思い出す。
ジントは無意識に、自分の胸を押さえていた。
「……帰る場所……」
ぽつりと呟く。
「ルナも……帰りたかったんだ……」
細い声だった。
ダイチが静かにジントを見る。
「ジント……」
ハヤトが低く呟く。
「……やはり教会と帝国は、“帰るべき場所”から無理矢理引き離していたということか……」
ジュウタロウの表情が険しくなる。
「それで限界が訪れた……」
「……最悪やな……」
シュンタも珍しく笑わなかった。
部屋の空気が重く沈む。
ジントは静かに次のページへ手を掛けた。
しかし紙へ触れた瞬間、ぞくり、と背筋が震える。
まるで、この先を読むことを身体が恐れているようだった。
だが、それでも。
ジントはゆっくりページをめくる。
そこには――
『そして、運命の日がやってきた』
という文字が記されていた。
コメント
1件
おお、ついにルナの過去が明かされてきたな…!「影を操る化け物」って恐れられてた存在が、実はただの寂しそうな少女だったっていうギャップがめっちゃ胸に来る。レオルが一輪の花を渡した時の「ありがとう」の笑顔、ジントが涙するのも分かるわ。白霧山って地名が出てきたことで、月の隠れ里の石碑とも繋がってきて、世界観がどんどん広がってる感じがする。後編も気になる!
𝕔𝕠𝕔𝕠
34
#み!るきーず
ぷりんねこ
28
comi
1,524
#M!LK
はる☻
29,738