大腿骨にヒビ。
それが医師の診断だった。
全治2週間。そう言われたが、ギブスで固定しておけば2日後には動けるようになっていた。
重いものを持ったり、素早い動きは出来ないが、日常的な家事程度は出来る。
紫音はまだ帰ってこない。
それでも彼女がいると、朝に浴びるシャワーや、頻繁に洗う部屋着のせいで洗濯物が倍になるため、今はいないほうがありがたかった。
晴子は数日ぶりにリビングに掃除機をかけ、ふうと額の汗をぬぐった。
ケガをしてからというもの、凌空が別人のように家のことを手伝ってくれるようになった。
今朝のシリアルの皿だって洗ってくれたのは凌空だ。
晴子は洗い棚の上で朝陽を浴びながらキラキラ輝いているシリアルボールを見ながら微笑んだ。
なしのつぶてだった悠仁からはこの数日の間に急にメールが来るようになった。
「話がある。大事な話なんだ」
「直接話したい」
「会えないか」
「早めに頼む」
おそらく香代子の妊娠のことだろう。
しかしまだ返信はしていない。
こちらは散々待ったのだ。少しくらいまたせてやりたい。
それに、彼にはギブスなどしていない綺麗な身体で会いたい。
きっとそれが最後になるだろうから。
輝馬から連絡はない。
紫音からもそうだ。
しかしきっといつか、この家へ帰ってくる。
その時は思い切り抱きしめてあげよう。
今度こそ、母として。
今度こそ、家族として。
3人の子供たちの母親は、まごうことなく自分なのだから。
あの女を除いて。
晴子はその部屋を睨んだ。
玄関の方から音がした気がした。
晴子は振り返った。
そう言えばここ数日掃き掃除もできていない。
今なら柄の長い箒を使えばなんとかできそうだ。
晴子はゆっくりと慎重に歩き出した。
◇◇◇◇
玄関を掃き終わって、塵を外に出すためにドアを開けると、ちょうど隣のドアが開いた。
「あれ、おはようございます」
珍しくスーツを着た城咲はこちらを見つめた。
「おはよう」
晴子は彼が持っている大きめのスーツケースを見下ろした。
「あら、旅行?」
「いえ、ちょっと質のいい肥料が手に入ったので、実家の方の花壇をいじりに」
実家。
花壇。
晴子は城咲を見上げた。
新しいベンツ。
実家があるのに、マンション暮らしを続ける経済力。
本当に謎が多い男だ。
「なんだ。他に若い女でもいるのかと思った」
悪戯心で聞いてみる。
城咲は目を細めて晴子の腰を引き寄せた。
「まさか。僕にはあなただけですよ」
嬉しいことを言ってくれる。
触れる唇。
晴子はそのたくましい首に腕を回し、温かい舌を味わった。
「…………」
城咲が顔を離し、晴子をのぞき込んでくる。
「なんか……」
「?」
「数日前とちょっと雰囲気が違うみたいだ」
城咲の唇に微笑が浮かぶ。
「何かありましたか?」
鋭い男だ。
晴子は何も答えずに微笑んだ。
彼とのことも何らかの結論を出さなければいけない。
健彦を捨てて彼との新しい人生を始めるのか。
それとも城咲を広い世界に解き放ち、自分は今ある生活の中に光を見つけていくのか。
まるでバルコニーで息づいている花たちと同じように。
そのどちらであっても、
3人の子供たちとは、これからちゃんとした時間を築いていきたいと思う。
25年間もかかってしまったが、自分たちの親子としての時間は、これから始まるのだ。
「戻ってきたら、教えてあげるわ」
その時がもしかしたら、城咲と最後かもしれない。
晴子は微笑んだ。
「………そうですか」
城咲は晴子の右肩に手を置いたまま微笑んだ。
次の瞬間、身体に痛みが走った。
ヒビが入っている腰にではない。
鳩尾にだ。
「……ぐウッ……!」
城咲の大きな拳が自分の腹にめり込んでいるのを見下ろしながら、
晴子は意識を失った。
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