テラーノベル
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やめてくれ。
篠田さんは、そう言った。
頼むから、もうやめてくれ。
頼む。
から。
もう。
やめて。
くれ。
私はその言葉を、家に帰ってから何度も分解した。
分解すれば、正しい意味が出てくると思った。人間の言葉はそのまま受け取ると危ない。表面には恐怖や怒りや遠慮がついている。本当の言葉は、その奥にある。
頼む、ということは、まだ私に向かっている。
から、ということは、理由がある。
もう、ということは、これまではあった。
やめて、ということは、続いているものを認めている。
くれ、ということは、私に手渡している。
つまり、篠田さんは私を拒んでいない。
私に求めている。
やめることを。
だが、やめたらどうなる。
誰が篠田さんを覚える。
誰が篠田さんの咳の回数を数える。
誰が篠田さんの「俺」を聞く。
誰が佳代子さんの名前を書く。
誰が、みかんが三つだったことを守る。
篠田さんは、分かっていない。
分かっていない人間の頼みを聞くのは、優しさではない。
見捨てることだ。
あの時、篠田さんは私の目の前で、黄色い便箋を握り潰していた。
皺だらけの手。
震える指。
紙の角が掌に食い込んでいた。
あの手が、私の言葉を潰していた。
私は言った。
「篠田さん、言ってください」
「何を」
「俺はここにいる、と」
篠田さんの顔が歪んだ。
「なんでそんなことを言わなきゃならん」
「消えないためです」
「消えないよ。俺は生きてる」
生きてる。
よい言葉だった。
だが足りなかった。
生きている人間も消える。
忘れられたら消える。
自分を諦めたら消える。
俺はもういい、などと言った瞬間、人は自分から彼になる。
「もう一度、言ってください」
「帰ってくれ」
「俺はここにいる、と」
「帰れ!」
その声は大きかった。
近くの扉が開いた。
三〇五号室の女が顔を出した。
名前はまだ知らない。
知らないままでは危険だ。
「篠田さん、大丈夫ですか」
三〇五号室の女は言った。
篠田さんは、私から目を逸らした。
逸らした。
私ではなく、三〇五号室の女を見た。
「大丈夫です」
篠田さんは言った。
違う。
大丈夫ではない。
大丈夫なら、なぜ私を見ない。
なぜ私に言わない。
なぜ俺はここにいると言わない。
三〇五号室の女は私を睨んだ。
「帰ってください」
あなたは誰だ。
私はそう言いかけた。
だが言わなかった。
言えば、また言葉が増える。
言葉が増えると、人は外側になる。
外側になると、彼になる。
私は帰った。
帰る途中、階段の踊り場で、手帳を開いた。
篠田重吉。
「生きてる」と発言。
「俺はここにいる」は拒否。
三〇五号室の女、介入。
救済妨害。
危険。
最後に、赤い字で書いた。
急ぐ必要がある。
その夜、私は眠れなかった。
壁に貼った貼り紙を見た。
来ないでください。
警察に相談します。
篠田。
篠田さんの字。
まだ震えている。
まだ生きている。
まだ間に合う。
私は貼り紙の下に、自分の字で書き足した。
俺はここにいる。
篠田さんの字ではない。
分かっている。
私の字だ。
代筆だ。
でも、何もないよりはいい。
何もないよりは、ずっといい。
私は朝まで書いた。
俺はここにいる。
俺はここにいる。
俺はここにいる。
俺はここにいる。
途中で一度だけ、また間違えた。
彼はここにいる。
その一行を見た時、部屋の中が真っ暗になった。
私は紙を食べた。
飲み込めなかったので、吐いた。
コメント
1件
読み終えました……。いや、これは、重い。冒頭で「篠田さんは私を拒んでいない」と分解していくロジックの異様な明晰さに背筋が冷えました。でも「彼はここにいる」と書いてしまった一行で世界が暗転して、紙を食べて吐く最後、全部が「記憶されること」と「誰かの枠に押し込めること」の紙一重の恐怖になっている。この語り手、もう自分を抑えきれないところまできてる感じがして、次がすごく気になります。