数日後、ボウモア農園で羊を追いかけるミーシャの姿があった。
馬に乗ったオレが手を振ると、気づいたミーシャがぶんぶんと手を振る。
先導する羊飼いの少年も足を止め、オレに会釈をした。
「どうやら、うまく馴染んでいるようじゃな」
馬から振り落とされないよう、オレの背中にしがみつくイリスが続ける。
「しかし、何の為にボウモアはミーシャを買ったんじゃ? ぶっちゃけ、役に立たんじゃろ。あの仕事、文字読めるとか関係ないし」
羊飼いの少年の後を追って、ミーシャがこけた。
栄養状態は改善しているものの、運動能力が足りていない。
運動不足だ。
長く奴隷部屋に閉じ込められていれば自然こうなる。
農園の奴隷たちからすれば、ただ歩くことすらできない出来損ないのように見えるかもしれない。
「これは驚いた。600歳を超えるエルフにもわからないことがあるらしい」
「うっさいわ。わしだって全知というわけにはいかんよ。つーか、お前らが短命過ぎるんじゃ!」
いや、わからないのも当然か。
こいつ自分のことしか頭にないからな。
「言うなれば、ミーシャは呪いだ。ボウモアはマルロ一家に呪いをかけたのだ」
さて。
マルロがボウモアを裏切らず、ボウモアはマルロを重用し続ける。
オレはその関係を理想的だと言ったが、理想は理想だ。
思い返してみるがいい。
すべてが理想通りになったことが、人生で何度あっただろうか。
仮に理想通りになったとして、それが永遠に続くと思えるだろうか。
答えはNOだ。
そんなことはありえない。
「え、実はボウモアはマルロのことが嫌いなのか?」
いや、そんなことはない。
だが、これからのことは誰にもわからない。
「まぁ、そりゃあそうじゃろうが。そんなことを考えても仕方なかろう?」
「ほう、ではお前がボウモアだとして。マルロに裏切られたらどうする」
イリスは少し考えてから言った。
「そん時は、そん時じゃ!」
楽観主義かつ刹那的なイリスらしい。
何百年もの寿命を持つイリスにオレ達、短命種の気持ちなど永遠にわからないのかもしれない。
答えは「次は絶対に裏切られないようにする」だ。
「えー、この世に絶対はないじゃろ」
その通りだ。
だが、それでも可能な限りリスクを減らし、利に手を伸ばすのが人間だ。
想像してみるがいい。
毎日あくせく働いて、必死に農場を経営してもその富のほとんどはボウモアの懐に入るマルロの気持ちを。
家を与えられ、結婚を認められ、子供を作っても、人の欲は止まらない。
よりよい暮らしを、より素晴らしい人生を求める。
自分は奴隷なのだとマルロが諦め、永遠に奴隷で居続けてくれるなら何の問題もないが、人間になりたいと願われたら非常に厄介だ。
人は皆平等で、誰もが幸福を追求する権利がある。
そんな言葉にそそのかされれば、マルロは瞬時に汚染され、これまでの恩などすっかり忘れてボウモアを裏切るだろう。
マルロはまだ若いがボウモアはもう年老いていく一方だ。
最悪の可能性にボウモアは備えざるを得ない。
具体的には自分の息のかかった奴隷をマルロの家に送り込む。
そして定期的に自らの屋敷に招き、近況を報告させる。
だが、どんな奴隷でもいいわけではない。
まず年老いた奴隷や若い奴隷は論外だ。
いきなりそんな奴隷を家庭の中に入れるよう指示されればどんな馬鹿でも怪しむだろう。それすら考えられないようでは、とても経営などできない。
残るは幼い奴隷だが、幼いばかりではいけない。
それなりに賢く、主人に忠実で、押しの弱い奴隷がいい。
弱くて可哀想で、可愛らしくて。
吹けば飛びそうな幼女をいきなり奴隷部屋に放り込む。
そんな判断を二児の父ができるだろうか。
「いや、まぁ。そりゃあそうじゃろうが……それこそ思惑通りにいかんこともあろう?」
その時は「可哀想だから同じ家で育ててやれ」とボウモアが口添えればいい。
わざわざ主人の前で非道な行いをできるほど、マルロは馬鹿になれない。
「しかし、優しいミーシャがそう簡単にマルロを売るじゃろうか」
いや、ミーシャは売る。売らざるを得ない。
性奴隷として扱われていた過去は、いい脅しになるからな。
「君の過去を他の奴隷に教えようか」
そう、少しちらつかせるだけでミーシャは言う事を聞いてくれるだろう。
「うへえ、ゲス野郎じゃあ」
この脅しが成立するのはイリスのように夜這いを仕掛ける奴隷が存在するからなのだが、完全に棚に上げている。
「まぁ、そんなわけだ。当然労働力としても扱うだろうが本命はこっちだ」
イリスがわかったような、わからないような顔をしている。
呪いの説明としては不十分だが、ここで話を止めておく。
イリスには言わなかったが、実際にマルロが裏切った場合、その裏切りの大きさによっては、ボウモアはマルロの子を売るだろう。
実際、先の会食でいくらになるか聞かれたので、嘘偽り無く答えておいた。
奴隷の子は奴隷という言葉があるが。
マルロの子は産まれながらにボウモアの資産なのだ。
資産であるからには大切にすることもあれば、売り払うこともあるし、癇癪(かんしゃく)を起こした主人が壊してしまうこともある。
帝国法上、マルロの目の前で子供を挽肉にしてもボウモアは罰せられないのだ。
そう考えると、生きたまま売り払うのはかなり良心的と言える。
マルロの子が二人いるというのがポイントで、片方売り払ってももう片方を人質にできる。
実の子を奪われたマルロ夫妻は、それでも他人の腹から生まれた幼女奴隷を育てなければならない。
こうなるとミーシャがスパイであることは明白になるのだが、それでもマルロはミーシャを排除できない。排除させてはもらえない。
これはもはや、ある種の呪いだろう。
呪いそのものとなったミーシャはマルロ夫妻にさぞ煙たがられるだろうし、暴力を振るわれるかもしれないが、役目をまっとうするしかない。
その為に買われたのだから。
空を見上げると、夏の雲がゆっくりと流れていた。
馬を止めてイリスを降ろす。
「ん、もう視察は終わりか?」
「ああ、あらかた見終えた。少し、ここで休む」
寝転がると、イリスがくっついてきた。
払いのけるのも面倒なので、そのままにしておく。
イリスは体温が高い。
14歳の少女は皆、このように熱いのだろうか。
いや、こいつは見た目が14歳なだけで、実際は600歳を超えるロリババアだが、ド変態ロリババアだが。
そんなことを考えていると、いつの間にかイリスが寝息を立てていた。
ミーシャが幸せになる方法は簡単だ。
マルロが永遠に奴隷で在り続けることを選択し、身の丈を超えた幸福に手を伸ばさなければいい。
奴隷が人になりたいなどと。
人には幸福を追求する権利があるなどと、馬鹿なことを願わなければ何もかもうまくいくのだ。
ああ、そうだ。
あの時もそうだった。
オレが人権などという概念をこの世界に持ち込みさえしなければ。
奴隷を人であるかのように扱いさえしなければ。
……ルナは死なずに済んだのだ。
少し、嫌なことを思い出してしまった。
もうすべて終わったことだというのに、我ながら未練がましいことだ。
「ん、アーカード。おまえヤりたいんか?」
オレの思いにイリスが反応する。
どうやら、目が覚めたらしい。
「うへへ、よいぞよいぞ! ようやくその気になったか!」
混血のエルフは豪快に笑ったかと思えば、そっと声を潜めてくる。
「わしのこの顔、ルナとかいう女のなんじゃろ? お前の愛した女なんじゃろ? なぜ抱かない。なぜ抑え込む」
天使のような顔で、魔性が囁く。
瞳の赤と髪の銀が、ルナの黒髪へと変わっていく。
「わしなら、お前の願いを叶えられるぞ。アーカード」
声色すら、ルナのものになっていた。
揺れる心を押さえつけ。
甘い蜜をオレは拒絶する。
「黙れ、奴隷ごときが」
忌々しい、本当に忌々しい。
このサキュバスの混血は願望の形をしている。
オレがこのような願いを持っているということ自体が許せない。
そんなことは許されないのに。
風が吹き、木々が揺れる。
遙か遠くから、羊の群れがやってくる。
黒髪の少女は羊飼いの少年におぶられ、手を振っていた。
ミーシャよ。
お前は幸せになれよ。
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