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そんなある日
俺とさん、それに将暉さんと瑞希くんの四人でいつものバーで飲んでいた。
賑やかな店内で、カクテルの氷がカランと鳴る音が心地よく響く。
くだらない話で笑い合ったり、たまには将暉さんが仕事の愚痴をこぼしたり
瑞希くんが仁さんをからかったり。
こういう時間が、俺たちには本当に大切なんだ。
日々の疲れとか、色々なモヤモヤが
ここで過ごす時間で溶けていくような気がする。
「…にしてもさ」
ふいに瑞希くんが俺の方を指さして、ニヤッと笑った。
「あんたってほんとビビリだよね」
「…え、そんなことないと思うけど」
「だってさ、前に遊園地行ったときあったじゃん?
観覧車とかゴンドラとか、めっちゃくっついてたでしょ、犬飼に」
「…ちょ、そ、それは……!」
横で仁さんが苦笑いしながらグラスを傾けている。
将暉さんは「あ~」といった顔で、口元を緩めた。
「…いや、実は俺、昔そういうとこに閉じ込められたことあるから密室系苦手なんだよ…」
言葉にした途端、あのときの感覚が微かに蘇る。
瑞希くんが眉を上げた。
「え、親とかに?」
「いや…知らないαで、ヤクザ」
俺は平然を装ってそう言ったけど、心のどこかがピリリと痺れた。
「は?」
「その、今となっちゃ笑い話なんだけど、リプス
口って闇組織に拉致監禁されたことあって」
「数時間、かな、発情誘発剤飲まされて、実験体っていうか試験体?にされてなんとか逃げたんだ、兄さんに電話したら、すぐ迎えに来てくれて」
言葉を繋ぐごとに、仁さんの表情がほんの少しずつ、硬くなっていくのが分かった。
瑞希くんは、しばらくぽかんとした顔のまま
ゆっくりと眉を寄せた。
「……そいえば、去年だっけ。人身売買・性的搾取の組織摘発”ってニュースが連日流れててさ」
「複数のオメガ男性が監禁されてだ”とか。あれ……もしかして」
「そうそう。まさにあのとき、また誘拐されて…十四年ぶりに」
その言葉に、瑞希がわずかに息を呑む音がした。
将暉はグラスを持ち上げず、ただ無言で仁を見ていた。
「….んで、そんときに仁が飛び込んでったってわ
けよ」
すると仁さんが「別にそれは言わなくていいだろ」
と照れ臭さそうに言うと
瑞希くんはニヤニヤしながら「どこぞの映画だよ、それ」と笑った。
俺は少し照れくさそうにしながらも、仁さんの方を向いて言った。
「…でも俺、あのとき仁さんが来てくれなきゃ、耐えかねて自決してたでしょうし、すっごく感謝してるんですよ?」
そう言って、俺は仁さんの手を自然と握った。
仁さんは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに優しい視線を俺に向けてくれる。
「それに、好きになれたのも、信頼できたのもぜんぶ仁さんが優しかったおかげですから、仁さんのこと好きになれて良かったです」
俺が笑顔でそう答えると、仁さんは耳まで真っ赤にして俯いた。
将暉さんが面白そうに片眉を上げて口笛を吹いて
「おーっと、これは公衆の面前で惚気けてんの?」
瑞稀くんは面白くなさそうにそう言ってきた。
俺は仁さんの手を握りしめたまま、くすくすと笑う。
「だって、最近やっとさんと恋人になれたばっかりだし、嬉しくて」
俺がそう言うと、仁さんはすぐに俺の手を握り返してくれた。
将暉さんもニヤニヤしながら、仁さんに向かって
「じんもやっと幸せ掴んだ感じかあ」と呟く。
仁さんは小さくため息をつきながらも、どこか満更でもなさそうな顔で「だろうな」と言った。
その後は明るい会話や酒をたっぷり楽しんで、店を出たのはもう深夜に近かった。
少しだけ体がフワフワするような、心地よい酔い加減。
アルコールが身体の芯を温め、思考をゆっくりとぼんやりさせていく。
心地よい酩酊感に身を任せ
楓とにさん、将暉さん、瑞希くんの四人は、賑やかなバーの通りをゆるりと歩いていた。
ひんやりとした夜風が、火照った顔に心地よく吹き抜け、酔いを優しく鎮めてくれる。
道行く人もまばらになり始めた通りに、他愛もない会話が溶けていく。
「次の休みどこ行こうか?」なんてそれぞれで話していた
そんな和やかな会話が、夜の静けさに溶けていく中、ふと、視界の隅に違和感が飛び込んできた。
前方に、人影が見えた。
街灯の明かりが薄暗く、まるで幽霊のように揺らぐその場所に
すっと、しかし確固たる存在感を放ちながら一人の女が佇んでいた。
夜の帳が降り、街の喧騒が遠のく中
彼女の姿は闇に溶け込むような深い色の服を纏い
まるでその場に最初からあったかのようにぴくりとも動かない。
冷たい夜風が細い道を吹き抜け
通り過ぎるたびに、彼女の衣擦れの音が微かに
しかし確かに聞こえるような気がした。
それは幻聴か、それとも現実か。
俺の全身を、形容しがたい不安が包み込んだ。
そのシルエットが、街灯の薄明かりの中に浮かび上がった瞬間
俺の全身は、まるで氷漬けにされたかのように凍りついた。
心臓が、ドクン、と大きく一度脈打ったきり
動きを止めてしまったかのような錯覚に陥る。
血液は一瞬にして血管の中で冷たくなり、まるで冷水が全身を駆け巡るような感覚。
内臓がぎゅっと締め上げられるような、耐え難い圧迫感が胸を襲う。
背筋をゾッと悪寒が這い上がり、首筋の毛が逆立
つ。
嫌な予感が、鋭い爪で心臓を鷲掴みにする。
心臓の鼓動が、恐怖に支配されて不規則に、弱々しく鳴り始めた。
呼吸は浅くなり、まるで水中で息を潜めているかのように苦しい。
肺が酸素を求めて悲鳴を上げているのに、上手く息を吸い込むことができない。
胃の奥から込み上げる吐き気は今にも喉元までせり上がってきそうで、口の中に酸っぱい唾液が溜まった。
仁さんも将暉さんも、そして瑞希くんも俺の突然の異変に気づいた。
それまで賑やかだった帰り道の会話がまるでテープが途切れたかのように、不意に静寂に包まれる。
楽しかったはずの時間は、一瞬にして凍りつき
重苦しい空気に支配された。
三人の視線が、まるで吸い寄せられるかのように一斉に俺の顔へと向けられ
そしてその先、薄暗がりに立つ人影へと移る。
彼らの表情もまた、瞬く間に警戒の色を帯びていくのが分かった。
仁さんの眉間には深い皺が刻まれ、その顔には明らかな動揺と心配の色が浮かんでいた。
将暉さんは無言でその人影を凝視し、その切れ長の瞳は鋭く獲物を捕らえる獣のようにそれを捉えていた。
瑞希くんは唇をきつく引き結んで、獲物を狙うかのような鋭い眼差しを向けており
その小さな身体からはじられないほどの緊張感が放たれていた。
彼らもまた、その場の異常な空気を敏感に察知していたのだ。
俺は、意識とは無関係にピタリと足を止めていた。
まるで足元から地面に根が生えたかのように、一歩も動けない。
全身の筋肉が硬直し、石像になったようだった。
身体は鉛のように重く、動かすことすら億劫だった。
喉の奥から、乾いた声が、枯れた葉が擦れるような音と共に絞り出された。
「また、あなたですか…っ」
それはまるで何年も声を出していなかったかのように掠れて
そして耐えきれないほどの震えを帯びていたかもしれない。
その声は、自分自身の耳にも、驚くほどか細く
そして情けなく響いた。
俺の全身を、絶望と怒りが複雑に絡み合い、どうしようもない感情の渦が巻き起こっていた。
なにせ、そこに立っていたのは
俺の心を深く抉り、傷跡を残したあの母親だったのだ。
夜の闇に浮かび上がるその顔は、街灯の薄明かりを受けてもその表情を読み取ることができない。
まるで感情の抜け落ちた能面のようだった。
その顔が、俺の過去の傷を鮮やかに蘇らせる。
彼女は、俺の言葉に何の感情も見せず、ただ不気味な笑みを浮かべて俺たちを見ている。
その視線は、獲物を吟味する肉食獣のそれと寸分違わない。
いや、それ以上に冷酷で、俺の体を今にも這い上がってくるようだった。
足元からゆっくりと、まるで蛇が這い上がるかのように視線が上り
心臓を直接掴まれるような錯覚に陥る。
その視線は、俺の存在そのものを値踏みしているようで肌に粟立つような感覚が広がった。
背筋に冷たいものが走り、全身の毛穴が開くような感覚に襲われた。
仁さんが、俺の異変に気づき
静かに俺の肩に手を置いてくれたのが分かった。
その手のひらから伝わる温かさが、凍りついた俺の身体に微かな熱を灯す。
その温もりが、辛うじて俺をこの場に繋ぎ止めている唯一の錨だった。
仁さんの存在だけが、俺を崩れ落ちそうになる衝動から救い出している。
張り詰めた緊張感が、俺たちの間に重くのしかかった。
その重圧は空気を支配し、呼吸すら困難にさせた。
母親は、俺の問いかけには答えず
ただ品定めするような目で俺たちを見渡した。
特に仁さんと将暉さん、瑞希くんの三人をじろじろと見つめ
まるで彼らの力量や価値でも測っているようだった。
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