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低気圧
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第3話 名を呼ばれた
「飲め」
水際へ戻った途端、白牙が杯を差し出してきた。
「言われなくても分かっている」
「前にも、そう言って倒れた」
「忘れろ」
「無理だな。上衣まで奪われた」
「奪ったのではない。あなたが勝手に着せた」
言い返しながら杯を受け取る。
あの日から、二か月が過ぎていた。
人型化準備区域の修了を控え、今日が最後の水陸複合訓練だった。
歩行路には日除けが設けられ、腰には補水用の小瓶を下げている。訓練の途中で何度か水を飲み、自分の水香が薄くなる感覚も、少しずつ分かるようになった。
水へ戻りたいと思う前に、喉の渇きへ気づける。
身体が発する言葉を、私は覚え始めていた。
杯を返すと、白牙が顔を近づけてきた。
「動くな。水香を見る」
断る間もなく、指が首筋へ触れる。脈を確かめるように二本の指を当て、そのまま顔を寄せて匂いを確かめた。
息が耳の近くをかすめる。
身体が、別の意味で熱を持った。
「問題ないな」
白牙は何事もなかったように離れていく。
私だけが、触れられた場所を意識していた。
以前の私なら、他者の指が離れることに安堵したはずだった。
今は、その袖を掴んで引き留めたいと思う。
だが、手は伸ばさなかった。
白牙は、必要な時だけ迷わず支え、立てる時には手を放す。そこへ、彼が与えていない意味を重ねたくはなかった。
あの手は景陽へ触れる時とは違う。
分かっている。
分かるようになったからといって、胸が鳴らなくなるわけではなかった。
あの日、景陽を恋人だと聞いた時、身体の奥に生まれた渇きにも、今は名をつけられる。
恋だった。
叶わないと知った後で、ようやく気づいた恋。
それでも、なかったことにしたいとは思わなかった。
「歩行路を一周したら終了だ」
白牙が半歩先へ出る。
以前なら、転ばぬよう腕を伸ばせる距離を保っていた。
今は振り返りもしない。
見放されたのではない。
私なら歩けると知っているからだ。
乾いた石床を踏みしめる。一歩ごとに足裏へ重みが返ってくる。水の中ほど自由ではない。それでも、この身体で進むことを、もう苦痛だとは思わなかった。
最後の段差も、支えられずに越えた。
「合格だな」
白牙が記録板へ印をつける。
その横には、名前の欄だけが空白のまま残されていた。
「修了までには決めろと言われている」
「名など必要ないと言っていたのは、どこの魚だったか」
「必要だ」
自分でも驚くほど、答えは早かった。
白牙が記録板から顔を上げる。
「名を呼ばれなければ、私は振り返れない」
呼ばれた時に応えるための音が欲しい。
誰かと並んで歩く時、そこにいるのが私だと伝えるための名が欲しい。
白牙だけではない。
これから出会う者たちにも、私を呼んでほしかった。
「候補はあるのか」
「ない」
「そこまで考えて、ないのか」
狼が呆れたように息を吐く。
やがて私の濡れた髪へ手を伸ばし、一房を指に取った。水滴が落ち、手の甲を伝う。
「お前の鱗は、深い場所では銀に見える。だが水面近くへ来ると、青く光る」
黄河にいた頃、見上げた水面の色だった。
「青い鱗で、青鱗。お前には、それくらい単純な名が似合う」
「魚をそのまま名にしただけではないか」
「嫌なら捨てろ。決めるのはお前だ」
指から髪が離れる。
私は、その音を胸の内で繰り返した。
青鱗。
敬われて遠ざけられていた銀の鯉ではない。
水から上がり、陸の暑さに倒れ、それでももう一度ここを歩いた私の名。
「それにする」
「即決か」
「決めるのは私だと言っただろう」
白牙の口元が、わずかに緩んだ。
記録板の空欄へ、二つの文字が書き込まれる。
その時、歩行路の向こうから景陽が現れた。診療科からの修了前所見を届けに来たらしい。
「名前が決まったのですか」
「ああ。青鱗だ」
白牙が、私を見る。
「これでいいな、青鱗」
初めて、自分の名で呼ばれた。
胸は痛んだ。
それでも同じくらい、嬉しかった。
「もう一度、呼べ」
白牙が目を瞬く。
景陽が小さく笑った。
「青鱗」
二度目の呼び声に、私はまっすぐ振り返った。
景陽が記録板の文字を確かめ、穏やかに頷く。
「診療科としての制限も、本日で解除できます。修了おめでとうございます、青鱗」
白牙とは違う声で呼ばれても、その音は確かに私を示していた。
白牙は景陽から所見を受け取り、彼の隣へ帰っていった。二人の肩が自然に並ぶ。
胸の奥は、まだ痛んだ。
だが、もう目は逸らさなかった。
黄河では、魚たちの方が私に道を譲った。誰かを追い、欲しいものへ自分から手を伸ばしたことなど、一度もない。
けれど、陸では待っているだけでは何も得られない。
今は、まだ。
白牙は景陽の隣にいる。
それで構わない。
名を得たのは、誰かに呼ばれて満足するためではない。
いつか白牙が、自分の意志で私の隣を選ぶようにする。
その時、景陽と目が合った。
彼は私の視線を受け止め、その先にいる白牙へ一度だけ目を向けた。
それだけで、何かを悟ったらしい。
景陽は白牙の隣から退かなかった。ほんのわずかに目を細め、私の視線を真正面から受け止める。
拒絶ではない。
牽制でもない。
――来るのなら、来ればいい。
そう告げられた気がした。
私も目を逸らさなかった。
「どうした」
白牙だけが、何も知らない顔で私たちを見比べている。
「何でもない」
私が答えると、景陽が小さく笑った。
私は青鱗だ。
欲しいものがあるなら、自分から陸へ上がって追いに行く。
――覚悟しておけ、白牙。
コメント
1件
「青鱗」——その名が決まる瞬間、胸が熱くなりました。水から上がり、倒れてもう一度歩いたからこそ選ばれた名前。白牙が髪を取って「青く光る」と言った描写が美しくて、そのまま彼女の新しいアイデンティティに繋がっていくのが沁みました。最後の景陽との間合いも好きです。拒絶ではなく「来るなら来い」と認めた上で、退かない——それが三角関係の緊張を静かに高めていて、続きが気になります。お疲れさまです、良いエピソードでした。