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GAPS!!

22
四月の海は、まだ冬の色をしていた。
灰色がかった波が防波堤にぶつかっては引いていく。空も海も、同じくすんだ青のなかに溶けている。けれど対岸の連峰だけが、残雪を纏って白く浮かび上がっていた。朝の光が稜線をなぞり、雪面が淡く光る。遠くでカモメが一羽、弧を描いて旋回していた。
相馬蓮は自転車のスタンドを立て、ベンチに腰を下ろした。海浜公園の遊歩道は静かで、犬の散歩をする老人が一人、防波堤の向こうを歩いていくのが小さく見えるだけだった。四月とはいえ北陸の朝は冷える。海からの風が制服のブレザーを通り抜け、首筋に湿った冷たさが触れた。磯の匂いが、潮風に混じって鼻をかすめる。
鞄からスケッチブックを取り出す。鉛筆を握ると、指先がかじかんでいるのがわかった。
描くのは、いつも風景だった。
対岸の連峰の稜線から始める。左端の鋭く尖った峰から、右へ連なる山並みのラインを一本の線で追う。迷いが出るとそのまま筆致に残るから、呼吸を整えてから手を動かす。空と山の境目。山と海の境目。海と防波堤の境目。境界線ばかりを追いかけて、蓮の画面は構成されていく。
風景には輪郭がある。山の形は明日も変わらないし、波の寄せる場所もだいたい同じだ。動かないものを写し取っているあいだ、蓮の手は迷わない。画用紙の上なら、自分と世界のあいだに正しい距離を置ける。
手前の海面に取りかかったところで、遊歩道をジョギングする人影がフレームを横切った。蓮は鉛筆を止めた。人が通り過ぎるのを待って、また海面の波を追い始める。人を描く気にはならなかった。人の輪郭は動く。表情が変わる。同じ顔が、一秒前とはもう違うものになっている。それを画用紙に固定することが、蓮にはうまく想像できなかった。
二十分ほどで大まかなラフが仕上がる。スケッチブックをめくると、似たような風景画が何枚も重なっていた。海浜公園からの連峰。隣町の海岸の岩場。漁港の朝。通学路から見た夕焼けの湾。どのページを開いても、人の姿は描かれていない。風景と風景のあいだに、蓮の日常が挟まっている。
腕時計を見て、スケッチブックを鞄にしまった。一限目に間に合うには、そろそろ急がないといけない。
自転車のペダルを踏み込む。追い風が背中を押して、海沿いの道を学校へ向かった。
美術室は校舎の三階の端にある。窓が大きくて、湾の向こうに連峰が見えた。朝よりも光が傾いて、雪面が淡い琥珀色を帯びている。
放課後の美術部。部員は蓮を入れて六人しかいない。三年生が二人、二年生が蓮と奈々瀬の二人、一年生が二人。少人数だから部としてのまとまりはあるが、制作中は各自が自分の世界に沈んでいて、教室ほど賑やかにはならない。
蓮はイーゼルに画板を立て、朝のスケッチに色を載せる作業を始めた。水彩のチューブから絞り出したコバルトブルーを水で薄く溶く。空の色を決めるのが、いつも一番迷う。今朝の空は薄い雲が流れていたが、その向こうの青をどう拾うかで画面の印象が変わる。
筆を走らせると、水が画用紙に染みていく湿った音がした。
隣のイーゼルでは、柊奈々瀬がキャンバスに向かっていた。油彩。テレピン油と亜麻仁油の混じった匂いが、奈々瀬のいる側からゆるく漂ってくる。水彩の匂いはすぐに消えるが、油彩の匂いは美術室に残る。五時を過ぎて他の部員が帰った後も、奈々瀬の匂いだけが部屋のなかに漂っていることがあった。
奈々瀬は黒髪を無造作にまとめて、筆を動かしていた。セミロングの髪をゴムで一つに束ねているだけで、細い首筋が見えている。教室ではそんなことを気にしたことはなかった。
何を描いているのかは、蓮の位置からは見えない。見ようとも思わなかった。制作中に他人の画面を覗くのは、着替えを覗くのと似ている——そういう感覚が、この部室にはあった。
「相馬くん」
奈々瀬が、筆を止めずに言った。
「パレットナイフ、そっちにある?」
蓮は足元を見た。木製のパレットナイフが、絵具のチューブに紛れて転がっている。
「あった」
拾って差し出すと、奈々瀬は筆を持ち替えて受け取った。指先に絵具がついている。カドミウムイエローの鮮やかな黄色が、白い指の上で目立った。
「ありがとう」
それだけだった。奈々瀬は視線をキャンバスに戻し、蓮も自分の画面に向き直る。会話はそこで終わる。美術室の窓際に置かれたラジカセから地元のFM局の音楽が小さく流れていて、筆が画面を擦る音だけが時折その上に重なった。
蓮はコバルトブルーに少しだけバーントシェンナを混ぜた。四月の空は、純粋な青では嘘になる。雲の白さを拾うために、ほんの少し濁らせる。筆を洗う水の中で、青と茶色が溶け合って、名前のない色になった。
ラジカセから流れる曲が変わった。知らない洋楽のバラード。奈々瀬がかすかにリズムを取るように、筆の動きが揺れた。蓮はそれを視界の端で捉えて、自分の画面に集中し直した。
その日の午前中、教室で席替えがあった。
くじ引きの結果、蓮の左隣の席に朝倉陽菜が来た。荷物を抱えてやってきて、椅子を引く。
「よろしくね、相馬くん」
陽菜が笑った。ショートボブの茶色い髪が揺れる。目尻が下がる、柔らかい笑い方をする子だった。教室のどこにいても、陽菜の周りだけ空気の色が違うみたいだった。
「よろしく」
蓮は短く返して、教科書に目を落とした。
休み時間になると、陽菜の机の周りに三人、四人と集まってくる。笑い声が絶えない。男子が話しかけても女子が話しかけても、同じ調子で返す。蓮は窓際の自分の席から、その賑やかさを少し眩しく眺めていた。
「ねえ、相馬くんって美術部だっけ」
四限目が終わった後、陽菜が机に頬杖をつきながら聞いてきた。周りの友人が購買に行った隙間の時間で、教室が少し静かになっていた。
「うん」
「絵、描くの好きなの?」
「まあ」
「どんな絵描くの? 人? 風景?」
「風景」
蓮は弁当箱を開けながら答えた。陽菜は「へえ、風景かあ」と、こちらの素っ気なさをまるで気にせず頷いた。
「この辺って絵になるもんね。海とか、山とか」
蓮は箸を止めた。毎朝スケッチブックを開いているのは、あの山並みが特別だからではない。窓を開ければそこにあるから描いている。その風景を、陽菜は「絵になる」と言った。
「そうかもしれん」
蓮が言うと、陽菜は目を丸くした。
「あ、今ちょっと方言出た」
「……出てない」
「出た出た。『そうかもしれん』って」
陽菜がまた笑った。蓮は弁当の卵焼きを箸でつまんで、黙って口に運んだ。陽菜の笑顔がやけに近い。隣の席というのは、思ったより距離がなかった。
「今度さ、描いてるとこ見てもいい? 美術室って入っていいの?」
「部員じゃなくても入れるけど」
「じゃあ今度行くね」
陽菜はそう言って、購買から戻ってきた友人に手を振った。「あ、メロンパン買ってきてくれた? ありがとー」と声を上げて、あっという間に普段の輪の中に戻っていく。蓮は弁当を食べながら、窓の外を見た。グラウンドでサッカーをしている男子の声が、ぼんやりと聞こえていた。
放課後、美術部の活動を終えて蓮が校門を出ると、みつきが自転車にまたがって待っていた。
高瀬みつき。小学校一年からの幼なじみで、家が近所で、通学路が同じだ。みつきの方が授業が早く終わる日は先に帰るし、蓮が部活で遅くなる日はみつきが図書室で時間を潰して待っている。今日がどちらなのか、確認したことはない。十年も一緒にいると、そういうことは勝手に決まる。
「遅いがいね。何しとったが」
みつきが蓮を見上げて言った。小柄な体にブレザーが少し大きく見える。黒髪が春の風に揺れて、みつきは片手で耳にかけた。
「美術室にいた」
「またけ。あんた、教室と美術室にしかおらんがやないが」
「図書室にもおるし」
「それ足しても三ヶ所ながいぜ」
蓮は自転車のロックを外して、みつきの隣に並んだ。ペダルを漕ぎ出すと、みつきも合わせて走り始める。二人の自転車のタイヤが、同じ速さで回る。
四月の夕方。まだ日が長くなりきっていなくて、西の空が早くもオレンジに傾いている。通学路の両脇には田んぼが広がり、水を張ったばかりの水面に空の色が映っていた。畦道にはスイセンが咲いている。海からの風が田んぼの水面をさざ波立てて、映った空が揺れた。
「席替えあったがやろ。隣、誰になったが?」
「朝倉」
「朝倉って、あの明るい子?」
「まあ」
「あんたの隣かあ。大変ながいね、あの子しゃべるもん」
みつきが言って、前を向いたまま少し笑った。蓮はハンドルを握り直した。
「別に。普通に話してただけ」
「あんたが普通に話すこと自体珍しいがに」
蓮は返す言葉を探して、見つからなかった。みつきは別に答えを待っていない。前を向いたまま、鼻歌とも溜息ともつかない息を吐いて、またペダルを漕いだ。
しばらく、二人は黙って田んぼ道を走った。自転車のチェーンが規則的に回る音と、遠くの海鳴りだけが聞こえる。黙っていても、ペダルのリズムは自然と揃っていた。
分かれ道の手前で、みつきが思い出したように言った。
「あ、そうや。美術部って来月、写生大会あるんやろ? 兄ちゃんが昔出たって言っとった」
「たぶん。明日、告知あるんじゃないかな」
「海浜公園でやるが?」
「たぶん」
「ふうん」
みつきは何か言いかけたように口を開いて、それからペダルを一つ漕いで、やめた。代わりに「ほんなら、また明日ね」と手を振って、左の路地に曲がっていった。ブレザー姿のみつきの背中が、路地の奥に小さくなっていく。
蓮は一人になった通学路をゆっくり漕いだ。振り返ると、学校の方角に夕日が沈みかけている。校舎の窓が橙色に光っていた。三階の端——美術室の窓も、同じ色に染まっているはずだった。
鞄の中のスケッチブックが、ペダルを踏むたびに背中で揺れていた。今朝描いた連峰の稜線。午後に載せた色。コバルトブルーとバーントシェンナを混ぜた、四月の空。あの色はもう少し調整がいる。
明日の放課後、あの続きを描こう。蓮はそれだけを考えながら、家までの道を走った。
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