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五月の海は、ようやく春を認めたような色をしていた。
連休が明けたばかりの土曜日の朝。湾の水面がひと月前とは違う青に染まっている。くすんだ灰色が抜けて、光を含んだ青緑が広がっていた。潮の匂いに混じって、遊歩道沿いのツツジの甘さがかすかに届く。風は海からだが、四月の刺すような冷たさはもうない。肌に触れて、そのまま通り過ぎていく。
美術部の春の写生大会。部員六人がそれぞれ画材を抱えて海浜公園に集まり、午前中いっぱい制作して、午後に美術室で講評する。顧問の平田先生が「場所は自由、ただし公園から出るなよ」とだけ言って、缶コーヒーを買いに売店の方へ歩いていった。
蓮はいつもの場所に画板を立てた。遊歩道の端、防波堤越しに湾が開けて、対岸の連峰が正面に見えるポイントだ。残雪はひと月前より後退して、稜線の上にだけ白い筋が残っている。五月の光の下で、山肌は四月よりも明るい藍色に見えた。
鉛筆を構えて稜線をなぞり始めたとき、視界の端に動く影があった。
柊奈々瀬が、蓮から五メートルほど離れた場所に折りたたみ式のイーゼルを広げていた。キャンバスを立て、絵具箱を開く。テレピン油の蓋を緩めた瞬間、松脂に似た鋭い匂いが海風に乗って届いた。
同じ方角を向いている。奈々瀬も、湾と連峰を描くつもりらしかった。
去年の写生大会では展望デッキの方へ行っていたはずだ。蓮はそう思いながら、声はかけなかった。制作前に話しかけるのは集中の邪魔になる。奈々瀬も蓮の存在を視界に入れたはずだが、そのまま筆を取った。
午前中の三時間、二人は五メートルの距離を挟んで、同じ風景に向かった。
蓮は水彩で描いた。五月の空にはコバルトブルーにビリジアンを一滴。海面の光には白を点々と置いて、波の揺らぎを拾う。連峰の影の部分にはウルトラマリンを薄く重ねた。筆を洗う水を替えるときに手元を見ると、水がいつもより澄んでいた。迷いが少ない日は、洗い水も濁らない。
三年生の二人は松林の方へ移動していった。一年生も漁港側の堤防を選んだらしく、声が遠ざかった。海浜公園のこの一角には蓮と奈々瀬だけが残っていた。五メートルの距離。声をかけるには少し遠く、黙っていても不自然ではない間隔だった。波の音と、ツツジの枝を風が揺らす音のあいだを、油彩がキャンバスに触れるかすかな音が縫っていく。
奈々瀬はまだ描いていた。油彩は水彩より時間がかかる。パレットナイフでキャンバスに絵具を載せる、乾いた小さな音が風の合間に聞こえた。
蓮はベンチに座り、スケッチブックに鉛筆で防波堤のラフを取った。漁船の舳先から船体のラインを追い、甲板に畳まれた網の影を描き込む。時折、奈々瀬の手の動きが視界の隅を横切った。追ってはいない。ただ見えているだけだ。奈々瀬は時々、筆を止めて海を見つめた。長い時間をかけて見て、それから一度目を閉じる。三秒ほどして目を開けると、見ていたのとは違う色を筆に取った。海面を見ていたはずなのに、パレットの上で混ぜたのは空の色だった。
昼前に、奈々瀬が筆を置いた。テレピン油を含ませた布で指先を拭きながら、蓮の方を見た。
「終わった?」
「先に」
蓮は立ち上がって、自分の画板を奈々瀬のイーゼルの横に並べた。
同じ湾、同じ連峰。
蓮の画面には、目の前の風景がそのまま映し取られていた。空と海の境界が柔らかく溶け合い、連峰の白さが画面を静かに引き締めている。色は正確で、構図は安定していた。見る人が「綺麗な風景だ」と素直に思える絵だった。
奈々瀬の絵は、同じ場所を描いたものとは思えなかった。海の色がずっと深い。波のタッチが荒く、パレットナイフの跡が画面にそのまま残されている。連峰は手前の海に押し出されるように後退して、空が広く開いていた。穏やかなはずの五月の湾が、奈々瀬のキャンバスの上では息をしていた。画面の右下隅に小さな白い点がある。蓮の絵にも同じ位置に漁船を描いたが、蓮の漁船は船の形をしていた。奈々瀬の白い点は、船ではなく海面に落ちた光の粒のように見えた。
蓮は奈々瀬の絵を見て、自分の絵を見た。それから、目の前の湾を見た。同じものを見ているのに、これほど違うものを描く人間が、五メートル先にいた。
「あんたの絵、優しすぎる」
奈々瀬が言った。海の方を見たままだった。
「優しい?」
「見たままを綺麗に拾ってる。上手い。でも——優しすぎる」
上手い。その三文字は素直に受け取れた。けれど「優しすぎる」は、蓮の中で形にならなかった。褒めているのか、そうでないのか。奈々瀬の横顔からは読めない。風が前髪を揺らしていたが、奈々瀬は払おうとしなかった。
テレピン油の匂いが、海風に薄れていく。蓮は自分の絵をもう一度見た。優しすぎる。その言葉が、画面の上のどこかに落ちているような気がした。
翌週の放課後。写生大会の絵に手を入れるつもりでイーゼルに向かったが、どこに筆を入れればいいのか、なかなか決まらなかった。パレットの上で色を混ぜては戻し、混ぜては戻す。そうしているうちに、廊下から足音がして、ドアが勢いよく開いた。
「おじゃましまーす」
朝倉陽菜が、上履きのまま美術室に入ってきた。
「相馬くん。この前言ったやつ、見に来たよ」
「……ああ」
「覚えてない顔しないでよ。美術室、見に来ていいって言ったじゃん」
陽菜は蓮のイーゼルの横に椅子を引きずってきて、遠慮なく座った。画面を覗き込む。
「え、これ海浜公園? めっちゃ綺麗じゃん」
「まだ途中」
「途中でこれ? 完成したらどうなんの」
「もう少し色を足すだけやけど」
「あ、また方言」
「……出てない」
陽菜が笑った。前回と同じやりとりを、二回目でも同じように楽しんでいる。笑い声が美術室の天井に跳ね返って、いつもより部屋が広く聞こえた。
「ねえ、あたしさ、クラスの文化祭実行委員になったんだよね」
「まだ五月やろ」
「だからこそ。装飾担当なんだけど、教室の看板とか壁のデザインとか、美術部の人にアドバイスもらえたらなって思って」
「俺は看板とかは描かんけど」
「いいのいいの、そのうち相談させてね」
「てかさ、美術室ってこういう匂いするんだ」
陽菜が鼻をくんと動かした。油絵具とテレピン油が染みついた匂い。蓮には日常の空気だが、初めて入った人間には独特に感じるらしい。
「油絵の匂い。慣れるけど」
「嫌いじゃないかも。なんか秘密基地みたい」
陽菜は窓の方に目を向けた。湾の向こうに連峰がかすんでいる。その日は薄雲がかかっていて、山の輪郭がぼんやり滲んでいた。
「ここから海見えるんだ。いいなあ、うちのクラス廊下側だからさ」
蓮が返事をする前に、陽菜は椅子から立ち上がって、制作中の他の部員の絵を見に行った。一年生の男子に「これ何描いてるの?」と話しかけている声が聞こえる。一年生が照れたように答えている。陽菜の声はどこにいても通った。美術室の端で制作している奈々瀬にまで届いているはずだった。陽菜がいると、美術室の空気が変わる。窓を開けたときのように、外の風がそのまま入ってきた。
美術室の奥では、奈々瀬が黙ってキャンバスに向かっていた。蓮と陽菜の会話が聞こえる距離にいたが、筆の動きは変わらなかった。
十五分ほどして、陽菜は「じゃ、また来るね」と手を振って帰っていった。廊下を遠ざかっていく足音が軽い。その音が消えると、美術室は急に静かになった。ラジカセのFMが天気予報を読み上げる声だけが、低く流れている。蓮は筆を持ち直した。さっきまで手が止まっていたことに、今になって気がついた。
五時を過ぎて、他の部員が帰った。
美術室に残っているのは蓮と奈々瀬だけだった。蓮は筆を洗い、パレットを拭いて片づけを済ませた。画板を棚に立てかけ、鞄を手に取る。窓の外は夕焼けの手前だった。五月の日はまだ長く、空が自分の色を決めかねているような時間だった。
帰る前に、スケッチブックを開いた。写生大会のときに描いた防波堤のラフを確認するつもりだった。
最後のページから遡る。防波堤の漁船。その前は通学路のスケッチ。隣町の海岸。先月の連峰。風景が続いている。
中ほどまでめくったところで、手が止まった。
風景画の合間に、違うものが挟まっていた。
人物のラフだった。顔の輪郭と髪の流れだけの、粗いスケッチ。鉛筆の線が薄く、意識して描いたというよりは、手が勝手に動いたような筆跡だった。三枚。どれも横顔で、どれも違う人物だった。
蓮はそのページを見つめた。いつ描いたのか、思い出せない。授業中にぼんやり手を動かしていたのか、放課後に画板に向かう前の何気ない時間だったのか。誰を描いたのかも分からなかった。輪郭と髪のラインだけで、特定の誰かの顔にはなっていない。
三枚の、三人分の横顔。一枚目は長めの髪の輪郭。二枚目は短い髪。三枚目は、耳にかけた髪の流れが描かれていた。どれも顔のパーツまでは描き込まれていない。けれど線に迷いがなかった。授業中にノートの端で描いたとすれば、手は教科書を開いたまま、目は黒板を向いたまま、指先だけが勝手に動いていたことになる。
スケッチブックを閉じて、鞄にしまった。
「帰らないの」
奈々瀬が、キャンバスに向かったまま言った。
「帰る」
「顧問から伝言。県展の出品準備の話、来週あるって」
「聞いてない」
「今、言った」
蓮は一瞬、何か返そうとして、やめた。奈々瀬はもう画面の一点に集中していて、蓮の返事を待っている気配はなかった。窓から差し込む夕日がキャンバスの表面を斜めに照らして、油彩の凹凸が小さな影をつくっている。
「じゃあ、また来週」
奈々瀬が小さく頷いた。蓮は美術室のドアを閉めて、廊下に出た。
西日に染まった廊下を歩く。上履きの音だけが放課後の校舎に響いていた。階段を降りると、窓の向こうに海浜公園のある方角が見えた。五月の夕方はまだ明るくて、湾の水面に橙色の光が散っている。対岸の連峰が影絵のように暗く浮かんでいた。
鞄の中のスケッチブックの重さを、肩に感じた。風景しか描かないはずの手が、いつの間にか人を追っていた。あの三枚の横顔。輪郭だけの、名前のない顔。
蓮にはまだ、それが誰なのか分からなかった。