テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
182
ruruha
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
第十話 【今夜、動く】
夜の新宿は、昼よりずっと嘘っぽい。
明るい看板、酔っ払いの笑い声、ビルのガラスに反射するネオン。
全部が派手で、雑で、何かを隠すにはちょうどいい。
北松誉は駅近くの雑居ビルの陰に立ちながら、心の底から思っていた。
「……なんで俺、張り込みなんてしてるんだろう」
「似合ってるよ」
隣でシオンが囁く。
「どこがですか」
「終電顔のくたびれサラリーマンが、夜の街で張り込み。完璧」
「褒めてないですよね」
「半分は褒めてる」
「その半分理論ほんと嫌いです」
誉は深く息を吐いた。
今夜、何かが動く。
高瀬はそう言って姿を見せた。
ならばこちらも、その“動き”を捕まえなければならない。
相良の判断は早かった。
駅構内の広告モニター、受け渡しの導線、終電前という時間帯。
それらをもとに、今日の動きは新宿駅西口側の雑居ビル群と地下通路周辺に絞られた。
現在、私服警官が複数配置されている。
詩織は安全のため別の場所で待機。
誉とシオンは、相良の近くで“現場の違和感”を拾う役だった。
「俺、ほんとに必要ですか」
誉が小声で言うと、少し前方にいる相良が振り返らずに答えた。
「必要です」
「即答……」
「北松さんが見ているものは、こちらがまだ拾えていないことが多い」
「プレッシャーなんですけど」
「気負わなくていい。違和感があれば言ってください」
誉は黙って頷いた。
気負うなと言われても気負う。
だが、ここまで来たら変に引くほうが危ない気もしていた。
シオンが壁に寄りかかりながら、通りを見ている。
「ねえ北松」
「なんですか」
「今日、ちょっと顔ちがう」
「疲れてるからですか」
「いや」
シオンは少しだけ笑った。
「逃げる顔じゃなくなった」
誉は一瞬だけ言葉を失った。
「……そんな大層なもんじゃないです」
「でも最初より、ちゃんと前見てる」
「あなた、そういう時だけ妙に真面目ですよね」
「そういう時って?」
「こっちの調子が狂う時です」
シオンは小さく笑ったが、それ以上は何も言わなかった。
時刻は二十二時を少し過ぎたあたり。
終電前にはまだ少しある。
だが人の流れは徐々に変わり始めていた。
飲み帰りの人間が増え、足取りが雑になる。
会話に夢中で周囲を見ない人も多い。
こういう時間帯だからこそ、何かを紛れ込ませやすい。
「広告モニター、次の切り替えまで三十秒」
インカム越しに、別地点の警官の声が入る。
誉は思わず駅入口の上に設置された大型モニターを見た。
コンビニ。保険。配信サービス。
広告が順に流れていく。
もしこれが合図なら。
たった数秒の同期で、人は動ける。
「北松」
相良が低く言う。
「はい」
「どの導線が一番怪しいと思いますか」
誉は通りを見た。
西口から出てきた人の流れが、いくつかに分かれていく。
大通り。地下へ降りる階段。雑居ビルの脇道。
そして、その奥に小さな喫煙スペース。
「……喫煙所の横」
「理由は」
「一瞬立ち止まっても不自然じゃないからです」
「うん」とシオン。
「あと、荷物を持ってても目立ちにくい。みんなスマホ見たり火つけたりで、周り見てない」
相良が小さく頷く。
「警戒を寄せます」
その直後。
インカムから別の声。
『対象らしき男、確認。西口地下階段から上がってきます。紙袋所持』
誉の心臓が跳ねる。
「……来た」
シオンの声が低くなる。
誉は思わず階段の方を見る。
いた。
グレーのパーカーにキャップ。
年齢は三十前後だろうか。
どこにでもいそうな男。
でも、手には紙袋がある。
大きすぎず、小さすぎず。
あの夜、柱の影にあったのと似たサイズだ。
「普通すぎる……」
誉が呟く。
「だからいいんだよ」とシオン。
「目立たない」
男は周囲を見ない。
見る必要がない、というように自然に歩く。
そのまま喫煙所横へ近づく。
誉は息を止めた。
「モニター切り替え、五秒前」
インカム。
男は歩調を変えない。
でも、ほんの少しだけ右肩が動いた。
「……合図だ」
誉が言う。
次の瞬間、モニターの広告が切り替わる。
それとほぼ同時に、喫煙所脇の柱の陰から別の男が出てきた。
黒いジャケット。帽子なし。
そして——
わずかに引きずるような歩き方。
「高瀬」
シオンの声から、温度が消えた。
高瀬は紙袋の男とすれ違う。
ただ、それだけ。
肩が触れるか触れないかの距離。
だが、その一瞬で紙袋が消えた。
「……っ!」
誉の背筋がぞくりとした。
「受け渡した!」
相良が即座に指示を飛ばす。
「確保!」
私服警官が一斉に動く。
高瀬と紙袋の男、両方へ向かって走る。
だが高瀬は、最初からそれを読んでいたみたいに笑った。
「逃げる!」と誉。
高瀬は紙袋を脇に抱えたまま、喫煙所の裏手の細い路地へ飛び込む。
もう一人の男は逆方向へ走った。
「二手!」と相良。
「俺は高瀬追う! 北松、シオン、来るな!」
「来るなって言われても」と誉。
でも、シオンはもう高瀬の消えた路地を見ていた。
顔が硬い。
「シオン」
「……分かってる」
「ほんとに?」
「分かってるって」
そう言いながらも、一歩前に出る。
誉は反射でその袖を掴んだ。
「待ってください」
「今度は何」
「さっきと同じです」
「でも」
「相良さんが追ってる」
「でも高瀬は」
「あなたが行くと冷静じゃなくなる」
シオンが振り返る。
その目に、一瞬だけ苛立ちが走った。
だが誉は離さない。
「……北松」
「はい」
「今それ言う?」
「今だからです」
数秒。
シオンは息を吐いた。
「……くそ」
その“くそ”は誉に向けたものではなく、自分に向けたものに聞こえた。
その時だった。
路地の奥から、短い悲鳴。
続いて、何かが倒れる音。
「……っ」
誉とシオンが同時に顔を上げる。
相良の声が遠くで飛ぶ。
「動くな!」
さらに走る足音。
「今度は行きます」
誉が言った。
「は?」
「今度は行かないとだめな気がする」
「なんで」
「音、変でした」
「変?」
「ただ逃げてる音じゃなかった」
自分でも説明できない。
でも、嫌な確信があった。
誉はシオンの手を放し、路地へ向かって走った。
「おい、北松!」
背後でシオンが舌打ちし、追ってくる。
路地は狭く、湿った空気がこもっていた。
飲食店の裏口。
積まれたゴミ袋。
非常階段。
光の届かない場所が多い。
誉は息を切らしながら奥へ向かう。
すると、途中で相良と私服警官が立ち止まっているのが見えた。
「……北松さん!」
「すみません、でも」
誉の言葉は途中で止まった。
路地の奥。
壁際に、紙袋の男が倒れていた。
「……え」
意識はあるらしく、苦しそうに呻いている。
額を切ったのか、血が少し見えた。
「高瀬は?」とシオン。
相良が鋭い顔で奥を指す。
「逃げた。非常階段から上へ」
「追ってる?」
「一名が回ってる。ただし——」
相良は倒れている男を見る。
「こいつが落とした」
紙袋が、地面に転がっていた。
誉の呼吸が止まる。
あの夜、受け渡しされるはずだったもの。
その続きを、今まさに見ている。
「……中身」
相良が手袋をはめ、慎重に紙袋を開ける。
誉もシオンも、黙って見つめた。
中に入っていたのは、緩衝材に包まれた小さな箱。
さらにその中から出てきたのは——
「……USB?」
誉が呟く。
一本ではない。
細いUSBメモリが五本、束になっていた。
「またデータか」とシオン。
「でもスマホじゃない」と誉。
「ええ」と相良。
「こっちは“端末”ではなく“情報”の受け渡しでしょう」
誉の背中がぞくりとする。
「じゃあ飛ばしスマホは、情報を流すための道具で」
「USBの中身が本命かもしれない」と相良。
「……何入ってるんですか」
「まだ分かりません」
倒れている男が、うめくように言った。
「……ちが、う……」
全員がそちらを見る。
男は唇を震わせながら、やっとのことで声を絞り出した。
「それ、全部じゃ……」
そこで意識が飛ぶ。
がくりと頭が落ちる。
「おい!」と相良。
警官が救急要請の連絡を入れる。
誉は紙袋と男を交互に見た。
全部じゃない。
つまりまだある。
まだ別口がある。
「……もう一個」
誉が呟く。
「何」とシオン。
「受け渡し、一回じゃない」
シオンの目が鋭くなる。
「根拠は」
「高瀬、あんな挑発までして出てきたのに、五本のUSBだけ受け取って逃げるの、変です」
「変?」
「もっと余裕あった。追われるの前提みたいな動きだったし」
「囮、ってこと?」
シオンが言う。
誉は頷いた。
「飛ばしスマホの量も、倉庫の規模も、これだけじゃ釣り合わない」
「……北松」
「だから今の受け渡しは本命じゃない。高瀬はこっちを引きつけるために、わざと見せたんじゃ」
相良が即座にインカムへ手をやる。
「全地点へ。受け渡しは複数の可能性。繰り返す、複数の可能性あり!」
誉の鼓動が一気に速くなる。
「じゃあ本命はどこですか」と誉。
「それを今考えます」と相良。
シオンが低く言った。
「……モニター」
「え?」
「北松が言ってた。広告モニターの切り替えが合図」
「はい」
「でも駅にモニターなんて、一個じゃない」
誉は一瞬で理解した。
「……連動してる?」
「西口だけじゃなく、地下通路も、別の出口も、時間で同期してる可能性がある」
「つまり、同じタイミングで別地点でも動ける」と相良。
「分散受け渡し……」
誉は背筋が寒くなるのを感じた。
一か所で騒ぎを起こし、警察の目を引きつける。
その裏で、本命を別ルートに流す。
「最悪」
「ほんとにね」とシオン。
「北松、どこだと思う」
「俺?」
「今、一番勘がいいのあんた」
そんなこと言われても困る。
だが誉は必死に頭を回した。
西口。
喫煙所。
人が流れ、立ち止まっても不自然じゃない場所。
そしてもう一つの“同じような条件”の場所。
「……地下」
「地下?」
「地下通路のコンビニ前。あそこ、人の流れが一瞬よどむし、荷物持った人も多い」
「あり得る」と相良。
「しかも、広告モニターが近い」
「時間差受け渡しもできる」とシオン。
相良がすぐに指示を飛ばす。
「地下通路班、コンビニ前を確認!」
誉は息を止めた。
数秒。
やけに長い数秒。
やがて、インカムから切羽詰まった声が入る。
『対象確認! 地下通路コンビニ前、紙袋二つ!』
誉の膝から力が抜けそうになる。
「……当たった」
シオンがちらりと誉を見る。
「すご」
「いや、偶然」
「偶然で二回当てる?」
「やめてください、今それ言われると怖い」
相良が短く言う。
「北松さん、シオンさん、移動します。今度は地下だ」
地下通路は、地上よりさらに息苦しかった。
人が多い。
天井が低い。
音が反響する。
どこかへ逃げ込まれたら見失いやすい。
誉たちが着いた時には、すでに私服警官と複数の男が揉み合いになっていた。
「うわ……」
紙袋が床に散らばり、中から小さな機器や封筒が転がっている。
悲鳴。怒号。足音。
「動くな!」
「離せ!」
「確保しろ!」
シオンが周囲を鋭く見回す。
「高瀬はいない」
「囮に徹してる……」
誉が言った、その時。
地下通路の反対側。
人混みの向こうに、見覚えのある横顔が見えた。
黒いジャケット。
少し長めの髪。
そして、こちらを見て笑う口元。
「……いた」
「どこ!」とシオン。
誉は指さす。
「向こう!」
高瀬は人波の中を後ろ向きに一歩下がり、まるで舞台の上みたいに、軽く片手を上げた。
シオンの顔が変わる。
「高瀬……!」
だがその瞬間、高瀬の口が動いた。
声は届かない。
でも、誉には読めた気がした。
“やっと見た”
次の瞬間、人の流れが間に入り、高瀬の姿は消えた。
「……っ」
シオンが駆け出そうとする。
誉も反射で動いた。
「今度は行く!」
「北松!?」
「見失う!」
二人は人混みをかき分けて走る。
相良の制止が背後で聞こえたが、もう止まれなかった。
地下通路の角を曲がる。
高瀬の姿はない。
だが、床に何か落ちていた。
シオンが拾う。
小さく折られた紙だ。
「……またか」
開く。
そこに書かれていたのは、たった一行。
『本名で来い』
シオンの手が止まる。
誉はその横顔を見た。
怒っている。
でもそれだけじゃない。
もっと深い、嫌悪と、動揺と、たぶん痛みに近いものが一瞬だけ浮かんでいた。
「……最低だな」
誉が低く言うと、シオンは笑いもしなかった。
「うん」
「でも、来いってことは」
「次がある」とシオン。
「しかも、たぶん俺だけに分かる場所か、俺の過去に関わる場所」
誉は紙を見つめた。
本名で来い。
それは挑発で、脅しで、呼び出しだ。
「……行くんですか」
誉が聞くと、シオンはすぐには答えなかった。
代わりに紙をぐしゃりと握りつぶし、数秒してから言った。
「行くしかないかも」
その声は、今まででいちばん低かった。