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「うわ、何の匂い、これ……?」
その声に目を開けると、部屋はバルコニーから差すオレンジ色の光で満たされていた。
火を消す人がいなかった牛すじを煮込んだ鍋は、安全装置で消える20分で焦げ付き、部屋は異臭で満ちていた。
「母さん……!?ちょ……大丈夫!?」
凌空が倒れている晴子を見つけ、駆け寄ってきてくれる。
「う……!」
身体を起こそうとするのだが、激痛で動けない。
「どうしたんだよ!?母さん!!」
凌空の声が痛む体に響いてくる。
「痛い?どこが痛いの?何があったの!?」
痛い。
腰が痛い。
何があったかは言いたくない。
晴子は痛みで涙をためながら凌空に訴えた。
「待って、今、救急車を……!」
晴子は立ち上がろうとする凌空の腕をつかんだ。
救急車は嫌だ。
そんな大事にしたらマンションのいろんな人に知られるし、咄嗟にやってしまった輝馬だって、いつか自分を責める日も来るかもしれないし、それに―――。
晴子はその部屋を振り返った。
南京錠をかけたあの部屋を、救急隊員が変だと思わない保証はない。
「抱き起して、ソファに座らせて。そしたらタクシーを呼んで病院に連れて行って……!」
晴子は凌空の耳元で言った。
「ーー大丈夫なの?行ける?」
凌空が覗き込んでくる。
大きくて綺麗な形のあの目で。
(なんて素敵な目なの……)
晴子はその目を見つめた。
恋しても愛しても手に入らなかった悠仁とそっくりな目が、自分を心から心配している。
けして彼からはもらえなかった眼差しに、晴子はうっとりと頷くと、その細い首に腕を回した。
◆◆◆◆
起き上がるまでが難関で、一度体を起こしてしまえば角度によっては楽だった。
凌空に支えられながらなんとかエントランスまでたどり着いた後は、タクシーの運転手も、「本当は僕たちはお客様に触っちゃいけないんですが……」などとぼやきつつも手を貸してくれた。
総合病院の緊急外来は日曜の夕方だというのに混んでいて、医師の診察後、晴子と凌空は待合室で1時間も待たされた。
「大丈夫?俺に寄っかかっててもいいよ」
ときおり凌空が心配そうにこちらを見つめてくれる。
こんなに優しくしてもらったのはいつぶりだろうか。
晴子は彼に頷きながら、お言葉に甘えて彼の肩に頭を寄りかからせた。
「凌空は―――背が高いのねえ」
いつも猫背だからあまり感じなかったが、輝馬より……下手したら城咲よりも高いかもしれない。
「なにいきなり」
凌空の笑い声が触れ合った肩を通じて、直接晴子の体の中に流れ込んでくる。
思えば、凌空だけだったかもしれない。
輝馬のように邪な感情を抱くことなく、
紫音のように嫌悪感なく、
息子として、家族として、
接することができたのは。
いつもはツンツンと生意気で、何かを見透かしたようにクールで、文句を言わせない凄みがある凌空が、倒れていた晴子を迷いなく、自然に介抱してくれたことが、今の晴子には嬉しかった。
「母さん……?」
凌空の肩に目を押し付けて、涙を拭いているのを察したのか、彼の声がいっそう優しくなる。
「痛む?」
確かに痛かった。
腰ではない。
胸が、裂けるほどに痛い。
自分は、
自分という母親は、
息子がこんなに大きくなるまで、その成長をちゃんと見てくることができなかった。
手に入ることのない男に溺れ、
その男の息子に縋り、
さえない夫の子供である長女を忌み嫌い、
そして次男には―――。
母親として許されないことをした。
謝っても償っても、時間はもう戻らない。
輝馬は自分を突き放し、
紫音は家を出てしまった。
自分に残ったのは、凌空だけ―――。
「休みでも夜中でもいいから、気になる時はまたいつでも来てくださいね」
そのとき、看護師が奥の扉を開けた。
「――――」
晴子は何気に凌空から隣診察室に視線を移した。
そこには産婦人科と書かれている。
「今が踏ん張りどころだから!ママ、頑張って!」
看護師が両手でガッツポーズを作る。
「ありがとうございます。またお腹が張ったら連絡しますね」
聞き覚えのある声。
「荷物、俺が持つよ。車持ってくるから、正面のベンチで待ってて」
また、聞き覚えのある声。
晴子は凌空の肩に寄りかかったまま目を見開いた。
その扉から出てきたのは、自らの腹を両手で摩っている香代子と、寄り添うように肩を抱く悠仁だった。