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第8話 消音
最初に変だったのは、収録の帰り道だった。
駅前の大型画面に、自分が出た朝の特集の切り抜きが短く流れていた。
棚の前で小物を持つ自分。
司会の笑顔。
朝の部屋を模したやわらかなセット。
あの時、たしかにあった薄い反射が、画面の中ではまだ残っている。
なのに、ガラスに映る今の自分は、ひどく平らだった。
人の体に、ウーパールーパーの頭。
丸くひらいた外鰓。
眠そうに見えやすい大きな目。
少しやわらかすぎる口元。
灰色寄りの細い上着。
中はモカ色のシャツ。
全部同じだ。
同じなのに、何かだけが急に引っ込んでいる。
通りを歩く人間の視線も、さっきまでと少し違った。
画面の中の自分には止まったのに、画面の外の自分は、そのまま流れていく足の横を静かに通り過ぎていく。
喉の奥に手をやりたくなった。
やらない。
やったところで、あの熱が戻るとは思えなかった。
翌朝の売場で、それはもっとはっきりした。
二階の通路。
朝の納品箱。
値札の差し替え。
ハンガーの向き。
やることは同じだった。
ミナセが三階から降りてくる。
ウーパールーパー頭の丸い輪郭。
薄い茶色のインナーに制服を重ね、外鰓の先に少しだけ艶をのせている。今日は目元の線が少し強い。
「昨日、見たよ」
その一言で、前なら空気が少しこちらへ寄った。
今日は寄らない。
ミナセはちゃんと見てくれている。
でも、その言葉が通路の中で小さく落ちて、それだけで終わる。
イオルは箱を持ち上げたまま、少しだけ目を上げた。
「ありがとう」
「うん」
ミナセは笑う。
その笑顔もやさしい。
やさしいのに、昨日までのように、次の言葉が自然にこちらへ集まってこない。
「なんか」
ミナセが首を傾げる。
「疲れてる?」
「そう見えますか」
「ちょっと」
「寝てはいます」
「そっか」
会話がそこで切れた。
おかしいと思った。
前なら、ここで何かもう一つ返っていたはずだ。
売場での小さなやり取りですら、少しだけ残るものがあった。
今日はそれがない。
フミはもっとはっきりしていた。
開店前の鏡の前で、帽子の角度を直しながら言う。
「顔、薄い」
「薄い」
「昨日までの、あの変な前の出方がない」
「そんなにですか」
「あるかないかで言うなら、ない」
フミは振り返りもしない。
メダカ頭のきりっとした輪郭は鏡の中でも崩れず、制服の襟元までぴたりと整っている。
「緊張してる時に消えた?」
「消えた、というか」
「喉」
「わからないです」
「わからない時、だいたい面倒」
イオルは鏡の中の自分を見る。
同じ顔。
同じ服。
同じ売場。
なのに、輪郭だけが棚の奥へ少し沈んでいる。
前みたいに、客へ向かってひとこと言えば止まる感じがない。
試してみたのは午前中だった。
生活小物の棚の前で、客に場所を聞かれる。
「乾きにくい素材のもの、どこですか」
「こちらです」
言った。
前と同じぐらいの声で。
同じぐらいの距離で。
客はうなずいた。
礼を言った。
そのまま歩いた。
それだけ。
止まらない。
見ない。
寄らない。
喉の奥は静かだった。
熱がない。
熱がないだけで、こんなにも普通の声になるのかと思った。
普通。
ついこの前まで欲しかったはずの普通が、その日はひどく寒かった。
昼休み、休憩室の端末では自分の出た特集の再放送分が流れていた。
他の従業員たちが何人か画面を見る。
「この人、店の人だよね」
「そうそう」
「昨日、ちょっと目立ってた」
目立ってた。
過去形だった。
しかも、その言い方は悪くないのに、もう終わった出来事みたいに軽い。
イオルは紙容器のスープを混ぜながら、画面の中の自分を見た。
そこには、まだきらめきがあった。
薄い反射。
喉の先の引き。
視線を一拍だけ止める何か。
いま隣の席でスプーンを持っている自分には、それがひとかけらも残っていない。
端末が震える。
制作会社からだった。
短い文。
次回の生活特集ですが、別候補で進行中です。
また別件あればご連絡します。
また別件あれば。
その言い回しの軽さが、紙より先に指へ冷たく落ちた。
ミナセがイオルの顔を見る。
「何か来た?」
「別候補が入ったみたいです」
「そう」
「はい」
「まだ別件あるかも」
「みたいです」
「……そっか」
ミナセはそれ以上言わなかった。
言えないのがわかる。
慰めるにはまだ早い。
平気なふりをするには、通知の文が少し短すぎる。
午後、店長に呼ばれた。
事務所の奥。
納品書の山。
イノシシ頭の大きな輪郭。
太い首元に作業着の襟が少し食い込んでいる。
店長は端末を机に置いたまま言う。
「外の話、少し減るかもな」
「はい」
「戻れるか」
「売場にはいます」
「そういう意味じゃない」
店長は鼻先で息を鳴らした。
「気持ちの置き場」
「……」
「ここに戻るのが落ちることだと思うなら、しばらくしんどいぞ」
「落ちる、とは」
「思ってる顔してる」
イオルは返事をしなかった。
思っている。
昨日まで、テレビの街の中では、種の違いも平凡さも少し後ろへ下がっていた。
今日は全部戻っている。
売場。
通路。
納品箱。
元の生活圏。
そこへ戻ることは、ただの日常のはずなのに、落下みたいに感じてしまう。
店長は机の端を指で叩く。
「変異なんて、出る日もあれば出ない日もある」
「そんなものですか」
「使えるかどうかの話なら、だいたいそうだ」
「でも」
「でも、画面は待ってくれない」
その一言が、胸の内側へ真っ直ぐ入った。
画面は待ってくれない。
生活特集の枠も。
朝の数十秒も。
残るかどうかで見られる場所も。
そこでは、出るものが出ない日は、すぐに別の候補へ置き換わる。
夕方、帰りの電車でイオルは窓の中の自分を見続けた。
いつも通りの顔。
人に押しつけない口元。
眠そうな目。
同じ種の多さの中へ自然に紛れる輪郭。
以前なら、その平凡さが自分の全部だった。
今は違う。
一度きらめいた後の平凡さは、前よりもずっと重い。
部屋へ戻る。
机の上には紙が並んでいた。
名刺。
連絡票。
応募票の控え。
雑誌。
放送の予定を印した端末。
それらが、全部少し古く見えた。
イオルは椅子に座り、前面カメラを起動した。
画面の中の自分。
冴えない。
それでも、昨日の残りが見えるかもしれないと思ってしまう。
「これ、急いでる朝でも手が止まりにくいです」
言う。
ただの説明になる。
もう一度。
「これ、急いでる朝でも」
違う。
喉の奥は静かなまま。
反射がない。
立ち姿が残らない。
誰かの朝へ届く途中の薄いきらめきが、どこにもない。
イオルは録画を止めた。
見返す。
ひどく普通だった。
普通すぎて、昨日の放送が別人みたいに思えるほどだった。
翌週、仕事は少しずつ減った。
少しずつ、というのがいちばん残酷だった。
急に全部なくなるのではない。
朝の短い特集枠が、別候補へ変わる。
再現の候補が、顔合わせの段階で止まる。
「今回は別の方で」
「枠の方向が変わって」
「また条件が合えば」
どの文面もやわらかい。
やわらかいのに、切る時の速さだけは迷いがない。
テレビの街は、一時的に種の違いを薄くした。
そのかわり、残るかどうかの差だけは容赦なく濃くした。
残らない者は、静かに後ろへ下がる。
しかも、理由をくわしく教えてもらえるわけでもない。
イオルは何度か施設へ呼ばれた。
呼ばれるたび、あの建物の空気の均され方が以前ほど救いにならない。
どの種にも拒まれない廊下。
高さの違う鏡。
湿りすぎず乾きすぎない空気。
その全部が整っているのに、自分の中の何かだけが整わない。
待機室では、また違う顔ぶれが並ぶ。
狐頭の女。
ダックスフンド頭の男。
メダカ頭の細い輪郭の新人。
ウーパールーパー頭の別の若い男。
みんな少しずつ違うのに、画面の前では同じ問いに並べられる。
残るかどうか。
イオルは待機室の鏡に映る自分を見るたび、輪郭が少しずつ薄くなっていく気がした。
リクヤに会ったのは、その三度目の呼び出しの日だった。
ラウンジの端。
低いソファ。
同じウーパールーパー頭。
短く整えた外鰓。
やわらかな茶色の上着。
相変わらず輪郭は軽く、そこにいるだけで場が整う感じがある。
リクヤはイオルの顔を見るなり、少しだけ笑みを消した。
「消えてるね」
「はい」
「喉?」
「たぶん」
「たぶんか」
リクヤは紙コップを机に置く。
「出ない日、あるよ」
「そういうものなんですか」
「出るものにもよる」
「自分のは」
「きらめき系は、揺れやすい」
きらめき系。
初めてそんなふうに言われた。
「揺れやすい?」
「気持ちとか、見られ方とか、自分の怖さとか」
「……」
「あと、変に守ろうとした時」
守ろうとした時。
その言葉が引っかかった。
イオルは視線を落とす。
「守ろうとしてるつもりは」
「なくても、体がやることある」
リクヤは少しだけ声を落とした。
「目立つの、怖かったでしょ」
「はい」
「でも、失うのも怖くなった」
「……」
「その両方が来ると、閉じる異変が出る人もいる」
閉じる。
イオルは喉へ手をやりそうになって、やめた。
「閉じるって」
「前へ出るのを、自分で薄くする」
「そんなこと」
「ある」
リクヤの目は穏やかだった。
穏やかなのに、ごまかしていない。
「きらめく異変を隠す異変、みたいなもの」
「隠す」
「わざとじゃない」
「……」
「むしろ守ろうとして、閉じる」
その場で、イオルは何も言えなかった。
自分の中に、前へ出るものを隠す別のものが出ている。
それがもし本当なら、今の薄さにも名前がつく。
でも、名前がついたからといって、戻るわけではない。
試し読みの部屋では、もっとはっきりした。
鳥頭の女が前に立つ。
細い輪郭。
鋭い目元。
濃い茶色の細い服。
彼女は紙を差し出す前に、イオルの顔をしばらく見た。
「今日は薄いですね」
「はい」
「自分でもわかる?」
「少し」
「少しどころじゃない」
やわらかい言い方ではなかった。
でも、冷たい言い方でもない。
ただ、見えたことをそのまま言う声だ。
読み始める。
短い場面。
返す。
言葉は間違っていない。
喉も潰れていない。
なのに、前にあったずれが起きない。
誰かの体が上に乗らない。
役の中へ半歩だけ入る、あの軽さがない。
全部、自分の顔のまま止まる。
終える。
部屋の中に沈黙が落ちる。
鳥頭の女が紙を閉じる。
「いま、自分をすごく見てる」
「はい」
「見られる側でいたくないのに、見られる側を気にしすぎてる」
「……」
「その状態だと、役が乗らない」
イオルは黙っていた。
正しいと思った。
以前は、誰かの中へ入っている間だけ、自分の重さを忘れられた。
今は逆だ。
失いたくない。
またきらめきたい。
薄くなりたくない。
そう思っている自分が、どの台詞の前にも立っている。
だから誰も乗らない。
役も。
きらめきも。
ただ、自分の不安だけが残る。
「今日はこれでいい」
鳥頭の女が言う。
「いいんですか」
「よくはない」
「……」
「でも、出ない日に無理にこじ開けると、もっと閉じる」
もっと閉じる。
その言い方が、外へ出たあとまで残った。
施設の帰り道、テレビの街は相変わらず整っていた。
高い連絡通路。
やわらかな色の案内線。
湿りすぎず乾きすぎない建物。
種の違いを引っかからせない工夫。
それでも、その整った街は、以前よりずっと冷たく見えた。
ここはやさしい場所ではない。
入り口の段差を減らしているだけだ。
入ったあとの順位までは、やさしくしない。
売場へ戻る日が増えた。
最初は代打のように、次第に完全に、元の勤務へ戻っていく。
二階と三階。
納品箱。
値札。
試着室。
湿度調整の案内。
まかないのスープ。
全部、前からあったものだ。
なのに、前の自分には戻れない。
一度画面へ出た体は、売場の通路だけでは少し広すぎる。
でも画面の向こうへ戻るには、いまの自分は薄すぎる。
どちらにも完全には収まらないまま、日常だけが続く。
客は普通に来る。
質問する。
礼を言う。
視線は止まらない。
通り過ぎる。
普通の応対。
普通の声。
普通の残らなさ。
その普通が、日によってはひどく痛い。
ある日、昼の休憩室で、若いバイトのダックスフンド頭が端末を見ながら言った。
「前、番組出てましたよね」
「少しだけ」
「最近は出ないんですか」
「最近は」
「忙しいんですか」
「そういうわけでも」
「へえ」
それで終わった。
悪意はまったくない。
ただ、興味がそこで切れただけだ。
少し前まで「最近は」が先に続いたはずの場所で、何も続かない。
変異社会の冷たさは、怒鳴る形では来なかった。
役に立つか。
残るか。
続くか。
そこだけを淡々と見て、違ったら静かに別の候補へ移る。
その速さが冷たかった。
店長はある日、搬入口で箱を運びながら言った。
「売場、辞める気ある?」
「ないです」
「ならよかった」
「よかったんですか」
「外だけで食えるほど、出方が安定してないだろ」
「……」
「きつい言い方だな」
「いえ」
「でも、そういうことだ」
店長は箱を台車へ載せる。
「武器になる変異って、出た時だけじゃなく、出ない日も含めて仕事にできるかどうかだから」
「はい」
「出ない日に全部崩れるなら、外は冷たいぞ」
「もう少し、わかってきました」
「わかったなら、まだましだ」
売場の床は今日も同じ硬さだった。
何も言わない。
何も持ち上げない。
ただ足の裏へ返ってくるだけだ。
夜、部屋の机に並んだ紙は少しずつ減った。
新しい連絡票は来ない。
古い通知だけが残る。
名刺も、前ほど熱を持たない。
端末の画面を開けば、過去の出演の切り抜きがまだ見られる。
そこには、たしかにきらめく自分がいる。
見れば、胸のどこかが浅く鳴る。
でも、いまの自分にはそれを再現できない。
再現、という言葉がもう痛い。
前面カメラを起動する。
画面の中の自分。
冴えない。
言う。
「これ、急いでる朝でも」
ただの声。
もう一度。
「遅かったね」
ただの台詞。
さらにもう一度。
「どうぞ」
ただの案内。
何度やっても、喉は静かなままだ。
その静けさが、最近は音のない壁みたいに感じる。
消音。
ふと、その言葉が頭に浮かんだ。
音が消えたわけではない。
声は出る。
言葉も届く。
でも、前にあった薄い反射だけが吸われてしまう。
きらめく異変を隠す異変。
リクヤの言葉がよみがえる。
守ろうとして、閉じる。
自分は何を守ろうとしたのだろう。
少しだけ前へ出られる自分。
同種の多さから抜けられる瞬間。
売場で終わらない顔。
それらを失いたくなくて、握った。
握りすぎて、全部静かになった。
ある雨の夕方、帰り道の商業区で、イオルは自分の出た特集の再編集版が流れている画面の前を通った。
人が何人か足を止める。
画面の中で、自分が小物を持っている。
薄くきらめく。
その数秒を見て、知らない誰かが言う。
「この人、感じいいね」
「最近見ないけど」
最近見ない。
ただそれだけ。
画面の外を歩いている本人には、誰も気づかない。
イオルは立ち止まらず、そのまま通り過ぎた。
雨のにおいが少し強い。
外鰓の先へ湿り気がつく。
それでも、喉の奥は乾いたままだった。
部屋に戻る。
濡れた上着を掛ける。
机の前に座る。
何もせずに座っていると、以前より部屋が狭く感じる。
テレビの街の高い天井。
均された空気。
種の違いが一時的に薄れる廊下。
あの場所を知ってしまった体に、ここはひどく正直だった。
狭い。
静か。
一般人の部屋だ。
一般人。
その言葉を、最近は何度も心の中で言うようになった。
前は何でもなかった。
今は少し重い。
一般人になった、と思うたび、少しだけ胸の中の何かが沈む。
でも、実際には最初から一般人だったのだ。
ほんの短いあいだだけ、前へ出る力が重なった。
それが隠れただけで、元へ戻った。
戻っただけ。
そう思おうとしても、体は一度知った明るさを忘れない。
眠る前、端末が震えた。
久しぶりに、鳥頭の女からだった。
短い文。
今は開けないでください。
薄い時ほど、見返しすぎると閉じます。
それだけ。
慰めでも指示でもない。
でも、イオルはその文を見たあと、過去の出演映像を開くのをやめた。
代わりに、端末を伏せる。
天井を見る。
喉の奥は静かだ。
静かなまま、何も返さない。
それでも、完全な空っぽではない気がした。
音が消えているだけで、喉そのものがなくなったわけではない。
ただ、いまは聞こえない。
次の日も、売場へ行く。
二階。
三階。
納品箱。
値札。
試着室。
湿度調整。
客は来る。
質問する。
礼を言う。
通り過ぎる。
元の生活圏。
変異社会は、役立つものを持ち上げる。
持ち上げたぶんだけ、役立たなくなれば静かに下ろす。
怒らない。
責めない。
ただ、次へ行く。
その冷たさの中で、イオルは棚の前に立ち、ただ一つだけ前と違うことをしていた。
客へ物を渡す時、少しだけ手をやわらかくする。
誰かの朝へ渡していた時の形を、忘れないように。
喉が静かでも。
きらめきが隠れていても。
その形だけは、まだ自分の中に残しておきたかった。
それが何になるのかは、まだわからなかった。