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第4話:閉ざされた廊下
物置に入った瞬間、冷たい空気が足元をなでた。
今日も例の本は、薄い西陽を浴びて、静かにそこにあった。
私は息を整えてページをめくる。昨日の最後の言葉のつづきが、きれいな文字で現れていた。
「ろうかをあるくおとが いまも みみにのこっている」
ただそれだけの文だった。
けれど、その一行が、胸の奥でじんと広がっていく。
——廊下を歩く音。
思い出す。
あの家の廊下は長くて、少しだけ軋んでいた。
夜になると、誰かがすり足で歩くような音が、ときどき聞こえた。
祖母の足音だった。
いつも裸足。爪先を畳にすべらせるような静かな音。
ただ、静かすぎるその足音が、なぜか子ども心にひどくこわかった。
本の次のページにはこう続いていた。
「あのひとのまえでは くちをひらけなかった」
「ことばは かならず ゆがめられた」
何かを訴えるような言葉。でも、直接的な“恐怖”の文字はない。
それでも、確かにそこにあった感情が読み取れる。
次のページはわずかに手が震えるほどの文だった。
「いいたかった でも いえなかった」
「なにを いっても ただ しずかに みられるだけだった」
祖父の字で、まるで独白のように、静かに並ぶ言葉たち。
その“静かに見られる”という記述が、声にならない圧力を伝えてくる。
*
祖母の姿がふと脳裏をよぎる。
髪は真っ直ぐにとかされた黒に近い濃い灰色。目は切れ長で、肌のしわが一本も乱れていない。
和装の裾は膝下できっちり揃い、爪の先まできれいだった。
話し方は丁寧で乱暴ではなかったけれど、その目線だけで相手を黙らせる力があった。
私はその目を、子どもの頃から少しだけ避けていた。
そして——祖父も、そうだったのかもしれない。
*
その日の帰り道、廊下の夢を見た。
夜の家。薄暗い廊下を、祖父がゆっくり歩いている。
白い作業着の背中がすこし丸まり、足音だけが響いていた。
途中、ふすまの奥から視線を感じ、祖父が立ち止まった。
ふすまがわずかに揺れる。誰も見えないのに、“あの人”の存在だけが、空気をゆがめていた。
祖父は、何も言わず、そのまま踵を返して、物置のほうへと消えていった。
*
翌朝、思い出したように母に聞いた。
「ねえ、じいちゃんって、おばあちゃんに何か言ってた?」
母は一瞬だけ黙ってから、ぽつりと答えた。
「……言えなかったんだと思う。ずっと、ね」
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