かしこまって言われると、照れくさくて、どうしていいかわからなくて。
なにも言わずにそばの水を飲んでいると、若菜が続ける。
「前もって計画して、準備してくれてて、ほんとに嬉しかった。
私は今日で30歳だから。
……私にとっては、特別だったんだ」
(若菜……)
俺はグラスを置いて、若菜を見た。
恥ずかしそうで、ちょっと泣きそうな顔が俺を見ている。
今日が特別なのは俺も同じだった。
若菜は、5/17の今日で30歳。
3/1生まれの俺は、30歳になるまで、あと10か月。
「……若菜」
俺は息をひとつ吸って、短く名を呼んだ。
どこでこの話を言おうか、どういう形で言おうか。
ずっと考えていた。
でも若菜がこうして切り出してくれたなら、きっと今が言う時なんだろう。
「若菜、誕生日おめでとう」
「湊……」
「……なぁ、10年前にお前が言った、お互い30歳になったら……って約束覚えてる?」
俺が口にした時、若菜の顔がこわばったのがわかった。
聞きたいような、怖いと思っているような目が、俺を見つめている。
“俺は30歳になるまでに、彼女をつくる気はない”
そう言って、若菜へ思っていること―――。
昔から一緒にいる幼なじみとしてじゃなく、ひとりの男として気持ちを伝えようと思った。
だけどその時、この雰囲気を破るように、若菜のスマホに着信が入った。
重なっていた視線がほどけ、若菜が慌ててスマホを手に取る。
「あっ、ごめん……!」
電源を切ろうとしたらしい若菜は、画面を見て動きをとめた。
「……お母さん?」
「え、おばさん?」
「うん……」
若菜のおばさんは、用がなければ連絡なんてしてこない人だ。
「出たら? 急ぎかもだろ」
「……うん」
若菜がスマホを耳に当てると、電話口でおばさんの切羽詰った声が聞こえてきた。
『若菜!
お父さんがお店で倒れたらしくて、救急車で運ばれたの。
今からお母さんも病院に行くから、若菜もこれる?』
「え……」
若菜は呆然と目を見開いた。
言われたことが理解できない、といったふうな顔。
でもそれは一瞬で、落ち着いておばさんから必要なことを聞いている。
(え……。嘘だろ……)
動揺したのは、若菜より俺のほうだった。
すこし前に会ったおじさんが頭をよぎる。
話をした時は元気そうだったけど、毎日遅いと聞いていたし、調子を悪くしていたら―――。
「湊」
若菜に呼ばれて、はっとして前を向いた。
さっきおばさんと話していた時とは違う、泣きそうな顔で俺を見ている。
「あの……。お母さんから電話で。
お父さんが倒れて……」
「……あぁ、聞こえてた。行こう。市民病院だろ?」
「うん……」
俺たちは力なく立ち上がり、カバンだけを持った。
食べかけの料理。
冷蔵庫に入ったままのケーキ。
今日は若菜の誕生日なのに―――神様は時々、こういった意地悪をするみたいだ。
おじさんが運ばれた市民病院は、コテージから一時間ほどのところにあった。
道中俺たちはほとんど話をせず、病院に着くと、駆け足で正面玄関をくぐった。
脳神経外科の診察室の前の長いすに、ひとつだけ人影がある。
若菜のおばさんだ。
「お母さん!」
若菜が声をかけると、おばさんは後ろを向き、いすから立ち上がった。
「若菜……。それに、湊くんも」
「お母さん、お父さんは?」
「今、中で処置をしてもらってるの。
お客さんが、お店で倒れていたお父さんを見つけてくれて、すぐ救急車を呼んでくれて……。
脳卒中みたいなんだけど、まだ詳しいことはわからなくて」
「そうだったんだ……」
おばさんはとても憔悴した顔で、若菜も同じような暗い顔をしている。
三人で長いすに座り、それから一時間ほど経って、看護師が俺たちのところに来た。
なにを言われるのかドキドキしたけど、おじさんの容体が無事だと言われると、おばさんも若菜も、心底ほっとしていた。
「今多田さんは病室に移っているところですので、ご家族の方は一緒に来てください」
それを聞いて、俺も緊張がゆるむ。
おばさんたちは頷き、若菜は俺を見た。
「湊、一緒にくる?」
おばさんも「来てもいい」と言ってくれたけど、やっぱり家族だけのほうがいいだろうと、俺は診察室前で若菜たちと別れた。
(おじさん、無事でよかった……)
おじさんが倒れたと聞いた時も、診察室の前で待っている時も、気が気じゃなかった。
コテージを片付けて、ケーキだけはあとで若菜が帰ってきたら、家に届けようか。
そんなことを思いつつ、車に乗ってエンジンをかけた時、スマホに着信が入った。
びくっとして画面を見れば「原田」の文字。
(なんだ、原田か……)
若菜からかと思ったから、とたんに気が抜ける。
このまま出ないでおこうかと迷ったけど、俺はひとつ息をついてスマホを耳にあてた。
「もしもし?」
「あーお疲れ!
お前今日休みなの? さっき店に行ったらいなかったから。
もし暇なら、待ち合わせして飲みにいかないかと思って」
原田が俺を誘った理由はすぐにわかった。
でも……。
「悪い。今車で……。病院から帰るところで」
「えっ、病院? お前、病気なの?」
「あ、いや俺じゃなくて。
……さっき若菜のおじさんが倒れて、それで今病院に来てて」
「えっ、倒れたって……! それで多田さんのおじさん、今どうなって……」
原田の声が大きくなり、焦っているのがわかった。
俺はなるべく落ち着いた声で言う。
「大丈夫、さっき看護師に聞いたけど、無事みたい。
若菜は今、おばさんとおじさんの病室にいると思う。
俺だけ先に別れたから、詳しくはわからないけど」
「そっか……」
容体を聞いてすこしはほっとしたのか、原田はしばらく黙った。
短い沈黙の後、なんともいえない声で、ぽつりとつぶやく。
「……そっか、大変だったな。多田さん、今日誕生日なのに……」
その言葉は俺の胸に深く落ちた。
まったく同じことを、俺も思っていたから。
「悪かった、清水。大変な時に電話して。
俺も……落ち着いたころに、多田さんのおじさんの見舞い、行けたら行かせてもらうよ」
「……あぁ、そうだな」
原田との通話を終えると、俺は背もたれに体を預けて、無意識に大きな息をついた。
スマホを助手席に置き、そのまま窓越しに病院の建物を見る。
明かりがたくさんついた窓が見える。
あの部屋のどこかに、おじさんがいるだろうか。
コテージに戻り、片付けを終えて家に帰ると、ちょうど日付がかわろうとしていた。
作ったケーキを冷蔵庫にいれようとしていると、スマホが震える。
若菜からメッセージだった。
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