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🌙 Scene 35:過去の細部
景兎先輩の言葉の余韻が胸に残ったまま、
意識はゆっくりと
“あの頃”へ沈んでいく。
同じ職場だった頃の景兎先輩には
いくつかの癖があった。
ひとつは、
資料を読むとき、
必ず左手の指先で紙の端を
そっと押さえる癖。
めくるわけでもないのに、
ただそこに触れているだけ。
その仕草が、
なぜか妙に静かで、
見ていると落ち着くような、
不思議な気配を持っていた。
もうひとつは、
考えごとをするとき、
視線が少しだけ斜め下に落ちる癖。
誰かを避けているわけじゃない。
ただ、
言葉を選ぶ前に
一度だけ沈むような視線。
その視線の意味を、
当時の私は知らなかった。
――でも今なら分かる。
あれは、
私に向ける言葉を
探していたときの仕草だった。
気づかなかった視線もある。
コピー機の前で私が
紙詰まりに困っていたとき、
景兎先輩は少し離れた席から
静かにこちらを見ていた。
助けに行くべきか、
声をかけるべきか、
迷っているような視線。
結局、
自分で直してしまったから、
彼は何も言わなかった。
でもそのあと、
席に戻ると、
景兎先輩はそっと
コピー機のマニュアルを
私のデスクの端に置いていった。
何も言わずに。
その静かな気遣いに
私は気づかなかった。
気づいたのは、
ずっとあとになってから。
ふたりの距離が
変わり始めた瞬間は、
本当に些細なことだった。
ある日、
資料の束を抱えて
廊下を歩いていたとき、
角で誰かとぶつかりそうになった。
そのとき、
景兎先輩の手が
私の腕をそっと支えた。
強く掴むわけでもなく、
驚かせるわけでもなく、
ただ、
落ちないように支えるだけの
静かな触れ方。
「すみません」
その一言だけで、
すぐに手を離した。
でも、
その一瞬の温度が
胸の奥に残った。
景兎先輩は、
私が落とした一枚の資料を拾って
そっと差し出した。
「……これ」
その声が、
いつもより少しだけ柔らかかった。
その日から、
ふたりの距離は
ほんの少しだけ変わった。
気づかないほど小さく、
でも確かに。
今、
画面に並ぶ彼の言葉を見ていると、
あの頃の静かな気配が
ゆっくりと形を持って戻ってくる。
“前みたいに話せるの、
少しだけ期待していました。”
あの頃の視線の意味が、
ようやく胸の奥で
静かに繋がった。v
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