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🌙 Scene 36:先輩の横顔を見た日
景兎先輩の言葉が胸の奥に残ったまま、
意識はゆっくりと
“あの頃”へ沈んでいく。
――雪白景兎先輩。
思い返すと、
景兎先輩にはもうひとつ、
当時は気づかなかった一面があった。
それは、
“誰もいない場所でだけ見せる横顔”だった。
ある日、
私が書類を取りに
倉庫の前を通りかかったとき。
扉が少しだけ開いていて、
中に人の気配があった。
覗くつもりはなかった。
ただ、
扉の隙間から見えた横顔に
足が止まった。
景兎先輩だった。
蛍光灯の白い光の下で、
景兎先輩は棚に寄りかかるようにして
目を閉じていた。
疲れている、
というよりも、
“静かに呼吸を整えている”ような姿。
普段の景兎先輩は、
淡々としていて、
乱れたところを見せない人だった。
だからこそ、
その一瞬の姿が
胸の奥に深く残った。
私は気づかれないように
そっと通り過ぎた。
でも、
そのとき胸の奥に生まれた感情は
今でもはっきり覚えている。
(……景兎先輩も、疲れるんだ)
当たり前のことなのに、
その当たり前が
妙に胸に響いた。
別の日。
帰り支度をして
ロッカー室に向かったとき、
景兎先輩が
ひとりでネクタイを緩めていた。
その表情は、
仕事中の無表情とは違っていた。
少しだけ、
肩の力が抜けていて、
どこか遠くを見るような目。
私に気づくと、
景兎先輩はすぐに表情を戻した。
「……お疲れさまです」
その声は、
いつもより少しだけ低かった。
私は
「お疲れさまです」
と返しただけだった。
でも、
その一瞬の“素の景兎先輩”が
胸の奥に残った。
あの頃の私は、
景兎先輩のことを
“静かで落ち着いた人”だと思っていた。
でも今思い返すと、
その静けさの奥には
疲れや迷いもあったのだと分かる。
その頃は気づかなかった。
景兎先輩が
誰にも見せない横顔を
私にだけ
偶然見せていたことに。
気づいたのは、
今になってからだった。
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