その場に、パシンと小気味良い音が響き渡った。
同時に、カイルが頬を押さえ、「ハニー!」と、情けない声をあげた。
「なにが、ハニーよ!あの女は、なに!」
もはや、人だかりがしっかりと出来ており、集まっている野次馬は、ナタリーの言葉に反応してか、ダーリン連呼中のロザリーへ視線を移した。
「な、な、なんなの?!」
好奇の目に刺されたロザリーは、思わず一歩退く。
「それは、こっちのセリフよ!カイル!あなた、君だけだ。幸せにする。結婚しよう。子どもは三人つくる。だから、家族に合ってくれ!と、言ったのに、他の女が、追っかけてきて、イチャイチャして!」
ひどい!と、ナタリーは、金切り声を張り上げて、大泣きした。
野次馬は、カイルを見る。
その視線に、こちらも、耐えられぬのか、
「いや、ちょっと、誤解、何かの間違い、それに、子どもは三人って、なんなの、ハニー!!」
カイルも、声を張り上げた。
ひどい、ひどいと、おんおん泣き叫ぶナタリーへ、野次馬の同情の目が集まり、続いて、カイルへ、信じられないと非難の視線が向けられる。
そんな、大騒ぎを嗅ぎ付けてか、何組か、男達が、駆けて来ている。
手には、カメラを持っているということは、記者の類いなのだろう。
その姿を、確認したナタリーは、ほくそ笑んだ。
すべて、計画通り。これが、カイル王子様の、ゴシップ記事になるだろう。さて、騒ぎにこの国は、どう出てくるのだろうか。それこそ、宰相の出番なのだろうが、ナタリーに、とっては、もう、どうでも良い話だった。
頭の中では、すでに、王子にもてあそばれた女として、注目されると、できあがっていた。
騒ぎ立てるマスコミという外野を押さえるには、ナタリーの、口封じしかない。
そこで、出てくるのが、手切れ金、いや、慰謝料なのだが、そいつをガッポガッポ頂けば、この面倒な輩とも、縁が切れ、引退という道も開けてくる。
後ろ指を差されるだろうが、そんな、笑ってくれる者の懐に入り込み、一緒に笑っていればよい。
もてあそばれた、といっても、相手は小国ではあるが、王子。ゴシップの、女王として、社交界に君臨できる。そもそも噂話で成り立っている社会でも、王族相手に云々という話は、そうそうない。
それだけに、笑われても、笑われ役になったとしても、価値がある。
多少目指していた方向とは、異なるが、これは、これで、面白おかしく暮らせるのではないだろうか。
あとは、宰相なりの、取引できる人間の登場を待つのみ。結局、宰相とは、対決することになるのかと、ナタリーは、幾ばくか、げんなりした。
そんな、ナタリーの胸算用を知ってか知らずか、あの、黒塗りの車を運転していた、ロザリーの仲間の男達が動いた。
ひとまず、車へ、などと言い、ナタリーとカイルを車へ押し込んだのだ。
「ちよっと!待ちなさい!」
ロザリーが、叫ぶ。
「あれ、裏切り?」
と、キャプテンが、さりげなく、嫌みたらしく、ロザリーへ言った。
その間に、ナタリーはカイルと共に車の後部座席に押し込まれ、静かにするようにと、助手席から、目立たないように、銃を向けられていた。
外では、やんややんやと、野次馬が、車に逃げ込んだ二人に向かって罵声のような、歓喜のような、良くわからない声をかけ、カメラのフラッシュが、次々焚かれ、その眩しさに、ナタリーは目を細め、光から逃げようと手をかざすが、それが、また刺激になったようで、フラッシュの洪水を浴びることになる。
「早く、車を出せ!」
カイルは、ナタリーを庇うように、覆い被さりながら、男達へ怒鳴った。
はいはい、さて、どちらへ、と、運転手役の男は、鼻唄まじりで言ってくれる。助手席の男は、さて、宮殿かねぇなどと、銃をしまうと、変わって、タバコを取り出し、火をつけている。
「あー、わかった!国王に会わせればいいんだろ!ただし、こちらの話が先だからなっ!俺は、ナタリーと、結婚するんだ!」
はあーと、車の中では、一斉に、ため息が漏れた。男達は、付き合いきれない、ナタリーは、どこまで腐れ縁なのか──、と、言いたげに。
ナタリー達を乗せた車は、悠々と進んで行く。
さすがに、もう野次馬が追いかけて来ることはなく、ゴシック建築が建ち並ぶ、中央広場らしき場所を通り抜け、高級感溢れる店が連なる通りを抜けてと、運転手は、勝手知ったる我が家とばかりに、王宮を目指しているようだった。
道々、カイルは、ハニー、ハニーと、二人の結婚式やら、その後の新婚生活やら、彼が、思い描くプランをまくし立て騒がしかった。
もちろん、車内は、しらけきっている。
ナタリーは、はいはいと、上の空で、相づちをうち、そのたび、助手席の男は、吹き出していた。
そんな空気に耐えるのも、限界を迎えそうになった頃、車の速度が落ちた。
前方に、衛兵に守られた重厚な門が見える。
その後ろには、英国式の前庭が広がる、バルコニーが印象的白亜の宮殿が威風堂々と建っている。
運転手は、クラクションを鳴らし、衛兵の気を引いた。
一言二言話しかけ、懐から、身分証の様なものを取り出して、運転手は、後部座席を指差した。
やあ、ご苦労様。俺、俺、と、ふざけてるのかなんなのか、我が身の正体を明かすカイルに、衛兵は、さっと背筋を伸ばすと、きちりと敬礼し、門を開けるように、言いつける。
「あらまっ、カイル、顔パスじゃない」
ナタリーのからかいに、
「そりゃ、こう見えて、王子のはしくれなんで、というか、俺が、王子だって信じてくれた?」
などと、甘い声をだしながら、ナタリーの胸に、顔を埋めようとすり寄ってくる始末だった。
「この馬鹿者が」
パシンと、ナタリーに頭を小突かれ、ハニーと、甘えてくる男に、ナタリーは、一抹の不安を感じた。
こいつは、本気だ……。今までの顛末を利用して、引退生活用に使う慰謝料なりなんなりを、取り上げたとしても……へたすれば、この男、カイルも、王族から飛び出して、ナタリーにくっついてくるかもしれない。
なんで、そこまで、カイルの面倒を見なければならないのか?!
永遠に付きまとわれる、いや、引きとらねばならないかもしれない腐れ縁に、ナタリーは、げんなりした。
さて、降りかかりそうな災難から、どう逃げる。
考えを巡らせている間に車は、敷地内へ進行し、正面の入り口の車寄せに停車していた。
もちろん、降りるように、促され、ナタリーとカイルは、車から降りた。
ただ、フランス側は、助手席の男が降りただけで、しかも、その男は、ドアから、慌てて駆け出して来た、宮殿の諸々を取り仕切る秘書官らしき、数名の男に頭を下げられ、ご機嫌伺いを行われている。
と、いうことは、そいつが、交渉係で、それなりの地位の人間なのかと、憶測したが、カイルと来たら、久々の里帰り状態。ピリピリしている秘書官らしき男達に、久しぶりとかなんとか、呑気に声をかけていた。
(こりゃ、駄目だ──。)
ナタリーは、行く先が、散々たるものになりそうな予感を抱きつつ、襲って来た、目眩のような絶望感と密かに戦った。