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夜、相談室の鍵を閉めたあと、遥はまっすぐ帰らなかった。いつもの道を外れ、人気のない校舎裏にある旧美術室へと足を運んだ。そこはもう正式には使われていないが、窓際に小さな机と椅子を置き、誰にも見つからない範囲で、遥はときどきそこに「言葉以外のもの」を落としていた。
机の上には、すでに置きっぱなしの画材。アクリル絵の具と、使いかけの筆。
正面には、真っ白なキャンバスが立てかけられている。
「……声を持ってきた、か」
遥はつぶやいた。
あの少女の言葉ではなかった。それでも、彼の胸の奥には、妙に残っていた。
「出さなくてもいい。でも、持ってろ」
自分で言っておきながら、その意味を測りかねていた。
絵の具のキャップを乱暴に外す。赤、青、黄、紫、緑――躊躇なく、筆を落とす。
最初に描いたのは、四つの三角形だった。
赤と橙の炎、青と紫の静寂、黄と緑の生、そしてその境界に滲む黒。
中央には、球体。世界の核のようで、内臓のようで。
滲ませる。擦る。重ねる。壊す。
描きながら、遥は思い出していた。
自分が初めて声を失った日のことを。
声を出したことで、音が消えた夜のことを。
そして、今日――何も言わずに頷いて帰った少女の、かすかな「呼吸の音」を。
筆が止まった。
キャンバスの上には、意味不明な形――けれど、たしかに遥の中の何かを写した形が現れていた。
彼はしばらく、それをじっと見つめた。
絵からは、何の言葉も発されない。
それでも、叫びに似た静けさが、部屋の中に満ちていた。
遥は深く息を吐いた。
「……こういう声も、ありだな」
誰にも聞かれない言葉。
彼はそれを残して、絵の横に静かに腰を下ろした。
この夜は、何も話さなくていい夜だった。