月子の瞳からは、ポロポロ大粒の涙が溢れていた。
男爵夫婦も岩崎も、心底あの御前様とやらが帰った事を喜んでいる。
気楽に食事ができると、皆笑い合っている。
しかし、何も知らない、できない月子を庇ったのだろう岩崎が、怒らせてしまったのは事実。
そして、あの御前様は、れっきとした岩崎家の縁者であって、今後も月子と顔を合わせることになるはずだ。
先々への不安もだが、申し訳なささから、月子は泣いていた。
「商人の娘を岩崎家へいれるのか!」
あの言葉が、月子の心を砕いていた。
商人の娘と言っても、本来は、うどん屋の娘なのだ。
身分が違うどころか、場違いにも程がある。
思えば思うほど、月子の涙は流れだす。
「月子?!」
泣きだした月子を岩崎が驚きながら見ていた。
少し困った顔を向けられて、月子は、どれだけ迷惑をかけてしまったのかと落ち込んだ。
尋常ではない月子の様子に、岩崎は、すっと席を立ち月子へ声をかける。
「……来なさい。少し休もう」
有無を言わさず、岩崎は月子の手を取り席を立たせる。
「申し訳ありません。私達は下がらせて頂きます」
律儀に男爵夫妻へ岩崎は言い、月子をさあと誘った。
岩崎に手を添えられ、月子は泣きじゃくりながらも、歩もうとする。
このまま、この部屋にいる事に月子は限界を感じていたが、そもそも、自分はいてはならない身分なのだと体が強ばってもいた。
そんな、ギクシャクとし月子の動きに、おっ、と、岩崎の声が被る。
同時に、月子がつんのめった。
「きゃっ!」
とっさに悲鳴をあげる月子を、岩崎が慌てて抱き止める。
「いや、すまん!月子!ドレスの裾を私が踏んでしまった!というより、どうも普通よりも長い様な急がするのだが、流行りか?」
言われても、月子には答えるすべもなく、とにかく転ばないよう抱き止めらるている岩崎の胸に体を預けて体制を保つことに精一杯だった。
「月子。泣かなくてもいい。せっかく、月子のドレス姿を見れたのに……笑ってごらん?」
岩崎の囁きに、コホンと水を指すかのような咳払いがして、男爵が、さっさと出ていけと呆れかえっている。
「やっぱり、私のドレスだから、丈が長いのよねぇ。そこまで寸法を直す暇がなくって……歩くのにはあぶないわねぇ」
「なるほど、そうですか。では、転ばないように……」
芳子の言い分を聞いた岩崎は、月子を抱き上げた。
目の毒だ。あらまあまあ。と、男爵夫妻の茶化すような声が聞こえたが、岩崎は、瞬間眉を潜めるだけだった。
「私の部屋へ食事を持ってきてくれ!」
そう清子に言い付け、岩崎は、月子を抱き上げたまま部屋を出ると、すたすた廊下を歩んで行く。
お互い何も語ることがなく、もくもくと岩崎は進んだ。
気まずさが勝ったのか、月子の涙はなんとか止まったが、重苦しい空気が二人の間に流れている。
なぜか、うまい具合に吉田が現れ、近くのドアを開けてくれた。
「お二人で過ごされる方が落ち着かれますでしょう……」
「吉田、お前には何もかもお見通しという訳か」
お褒め頂きましてと、吉田は言いつつドアを開けながら、一礼する。
「まあ、なんだ、月子。もう終わったのだから、気を楽にしなさい。私しかいない訳だし、気負うことなどないぞ?」
と、言い訳のような、屁理屈のような言葉をかけてくれる岩崎には、そう、口髭がない。
何を思ってか、いきなり髭を剃った岩崎の見かけは、若返っている。
その見慣れない岩崎の表情が、抱き上げられている為、目と鼻の先にあった──。
月子は、岩崎に病院へ連れて行かれた事をふと思い出す。
あの時、人力車の隣に座り、岩崎の横顔を見た。端正な顔立ちをしていると、少しばかり見惚れた。その面持ちが間近に迫ってくれている。
岩崎も、月子の落ち着きのなさに、近すぎたと感じたのか、急にオロオロし、目についた長椅子に月子を下ろすと自身も隣に座る。
「うん、なにかの集まり、そう、たとえば、舞踏会では困ったときは、取りあえず座って過ごす」
「舞踏会……?」
「ああ、そうだ。そうだっ!月子!!せっかくだ!」
何かを思いついたようで、岩崎は勢い良く立ち上がると、部屋の隅へ向かった。
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