テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#コメディ時々暗闇
奏音•*¨*•.¸¸♬︎💙
1,174
#恋愛
ばたっちゅ
3,056
3
81
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
夜には、境界がある。
人間の住む街と、 ヴァンパイアの住む街。
昼と夜。
光と闇。
そして――愛してはいけない者同士を隔てる境界。
その境界は、《黒き盟約》と呼ばれていた。
はるか昔。
人間とヴァンパイアは長い戦争を繰り返した。
互いに互いを恐れ、 憎み、 奪い合った。
やがて世界が滅びかけた頃、 夜の王と人間の王は誓いを交わした。
「互いの領域を侵さない。」
「互いの血を求めない。」
「決して、愛し合わない。」
その誓いが、 世界を守るための最後の鎖となった。
以来、数百年。
誰も、その掟を破ることはなかった。
少なくとも、 表向きには。
その夜。
港町ルーメルでは、 年に一度の月祭が開かれていた。
街中に灯火が揺れ、 広場には音楽が流れ、 子どもたちは笑いながら走り回る。
エレナは、人混みを避けるように歩いていた。
祭りは嫌いではない。
けれど、 どうしても落ち着かなかった。
幼い頃からそうだった。
賑やかな場所にいるほど、 胸の奥がざわつく。
誰かに呼ばれている気がする。
遠く。
もっと暗い場所から。
「エレナ。」
不意に呼ばれ、振り返る。
幼馴染である友人が手を振っていた。
「どうしたの? ぼーっとして。」
「ううん。ちょっと。」
「また夜を見てた?」
笑われる。
エレナは苦笑した。
「そんなに変?」
「変。昔から。」
その友人は肩をすくめた。
「夜なんて怖いだけじゃない。」
エレナは答えなかった。
怖い。
そう思う。
それなのに。
なぜだろう。
夜空を見るたび、 どこかへ帰りたくなる。
自分でも知らない場所へ。
そんな気持ちになる。
祭りの喧騒を離れ、 エレナは港へ向かった。
波の音がする。
月が海を照らしている。
静かな夜だった。
その時。
背後で、 金属音が響いた。
カラン。
何かが落ちた音。
振り返る。
誰もいない。
けれど。
港の先。
古い石畳の向こうに、 ひとつの影が立っていた。
黒い外套。
銀色の髪。
夜より深い色の瞳。
男だった。
彼はじっと、 エレナを見ていた。
逃げなければ。
そう思う。
知らない男。
しかも、 夜更けの港。
普通なら。
怖くて逃げるはずなのに。
足が動かなかった。
男がゆっくり近づく。
月明かりが、 その横顔を照らした。
驚くほど綺麗だった。
人間とは思えないほど。
「……こんな時間に、一人か。」
低い声だった。
エレナは頷いた。
「あなたは?」
男は少し困ったように笑った。
「名乗るべきじゃない。」
「どうして?」
「知れば、おまえが危険になる。」
変な人。
そう思うのに。
不思議と嫌ではない。
エレナは一歩近づいた。
「それでも知りたい。」
男は黙った。
長い沈黙。
やがて。
「……ルシアン。」
そう答えた。
「エレナ。」
自然に名を返す。
ルシアンは、 少しだけ目を見開いた。
「知らない相手に名前を教えるのか。」
「あなたも教えた。」
「俺は後悔してる。」
エレナは笑った。
「じゃあ、私も後悔するかも。」
ルシアンも、 小さく笑った。
その時だった。
風向きが変わった。
ルシアンの表情が消える。
「……まずい。」
「え?」
「隠れろ。」
急に腕を掴まれた。
次の瞬間。
夜空を、 黒い影が横切った。
人ではない。
巨大な翼。
赤い瞳。
そして。
月明かりを反射する、 漆黒の甲冑。
ルシアンの顔色が変わる。
「追撃隊……。」
エレナは息を呑む。
追撃隊。
子どもの頃から聞かされてきた。
夜に出歩くな。
追撃隊に見つかる。
そういう、 昔話の存在。
影は空を旋回した。
ひとり。
またひとり。
三つ。
四つ。
夜空を覆う。
ルシアンが低く呟く。
「どうして……こんな場所に。」
すると。
空から声が降ってきた。
「見つけたぞ。」
冷たい声だった。
「ルシアン。」
ルシアンが舌打ちする。
「セラス……。」
黒い翼の男が、 ゆっくり地上へ降り立つ。
「一族への帰還命令だ。」
「断る。」
即答だった。
セラスは、 エレナを見た。
その瞳が細くなる。
「……なるほど。」
静かな声。
「理由は、その人間か。」
エレナの背筋が凍った。
ルシアンが前へ出る。
「彼女は関係ない。」
「ある。」
セラスは剣を抜いた。
細身の長剣。
月光を浴び、 青白く輝いている。
「掟を破った。」
「まだ何もしてない。」
「人間と言葉を交わした。」
セラスは答えた。
「十分だ。」
エレナは理解できなかった。
何を言っているのか。
ただ。
ルシアンが震えているのだけは分かった。
怒りで。
恐怖で。
それとも。
別の何かで。
セラスは剣を向けた。
「ルシアン。」
「最後に問う。」
「その人間を捨てるか。」
長い沈黙。
波の音だけが響く。
ルシアンは、 一度だけエレナを見た。
ほんの少し。
困ったように笑う。
「……悪い。」
「巻き込む。」
エレナは首を振った。
「わからない。」
「何が起きてるの?」
ルシアンは答えた。
静かに。
悲しいくらい穏やかに。
「俺は。」
「ヴァンパイアなんだ。」
その瞬間。
月が雲から姿を現した。
ルシアンの瞳が、 深紅に染まる。
牙が覗く。
人ではない。
それでも。
エレナは。
怖いより先に思った。
綺麗だ、と。
セラスが目を閉じた。
「終わりだ。」
剣が振り下ろされる。
その刹那。
ルシアンはエレナの手を掴んだ。
「走れ。」
「え?」
「今なら、まだ戻れる。」
エレナは、 その手を見た。
冷たい。
人間ではない手。
けれど。
不思議なくらい、 離したくなかった。
ルシアンが叫ぶ。
「エレナ!」
エレナは、 強く握り返した。
「……嫌。」
「え?」
「一人で戻るのは嫌。」
ルシアンが息を呑む。
セラスが目を細めた。
「そうか。」
夜風が吹いた。
「ならば。」
追撃隊が、 一斉に剣を抜く。
「二人とも、逃亡者だ。」
ルシアンは笑った。
諦めたように。
嬉しそうに。
そして。
エレナの手を、 もう一度強く握る。
「……後悔するぞ。」
エレナは頷いた。
「一緒なら。」
その言葉を聞いた瞬間。
ルシアンは駆け出した。
夜へ。
港を。
街を。
すべてを捨てて。
追撃隊の咆哮が響く。
鐘が鳴る。
街中に。
禁忌が破られたことを告げる鐘が。
もう。
戻れない。
二人は知っていた。
手を繋いだあの瞬間から。
人間の世界にも。
ヴァンパイアの世界にも。
帰る場所は、 どこにもなくなったことを。
けれど。
夜は、どこまでも続いていた。
そして。
二人の逃避行が、 静かに始まった。
――