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「デート?…それって俺のことかな?」
背後から聞き覚えのある低くて甘い声が響き渡る。
びっくりして振り返るとそこには朔久が立っていた。
「さ、朔久……!?」
朔久はその整った顔に軽く笑みを浮かべながら俺を見下ろした。
いつものように陽気に笑いながら、ふと顔を近づけてきたかと思うと
朔久の唇が右頬に一瞬、柔らかく、温かいものが触れた。
その瞬間、柑橘系の微かな香りが鼻をくすぐり
それは彼の纏う独特の、陽光を浴びたような明るい雰囲気を漂わせていた。
思考は一瞬にして凍りつき
ただ目の前の、あまりにも近すぎる朔久の顔の輪郭だけがぼやけて映る。
何が起こったのか理解するまでに、ほんの数秒のタイムラグがあった。
朔久の唇が離れた後も、触れた箇所には微かな熱が残っている。
まるでそこに、彼の存在が焼き付けられたかのように強く。
「ん?どした?」
彼は何事もなかったかのように、きょとんとした顔でこちらを見ている。
その屈託のない笑顔に、俺の心臓は不規則なリズムを刻み始めた。
頬に触れた感触と、朔久の無邪気な表情とのギャップが頭の中でぐるぐると渦を巻く。
俺は右頬に手を添えて、なにしてんの?!と思わず聞きそうになったとき
先に口を開いたのはその光景を目の当たりにした向かい席の瑞希くんだった。
「今キスしたよね??絶対したよね???」
その大きな目を真ん丸に見開き、じられないものを見るような目で朔久と俺を交互に見つめる。
その隣では、将暉さんが苦笑いを浮かべている。
「瑞希くん、一旦落ち着こ?」
そう言う将暉さんの表情はどこか面白がっているようにも見えた。
「ひ、人前で…っていうか、さ、朔久なにしてんの!?」
「あー、ごめんごめん。海外にいたときの名残で普通にキスしちゃった」
朔久はあっけらかんと答える。
「か、海外ってそんな当たり前のようにする習慣あるの……!?」
俺は思わず首を傾げながら疑問を投げかけた。
するとすかさず将暉さんが
「ヨーロッパ、ラテンアメリカ、一部の中東地域とか、スペインじゃ頬にキスする習慣あるみたいだよ?」
とスラスラと教えてくれる。
朔久は少し困ったように微笑みながら
「まあ、男同士の場合は握手が一般的なんだけど、ね?」
「ま、またからかって……!」
「ははっ…からかってるつもりはないよ?昔も今も楓にしか、こんなことしないからね」
その言葉に俺の心臓はさらに跳ね上がり、顔が熱くなるのが分かった。
昔は普通にそういうことをしていたとはいえ
急にこういう行動は心臓に悪い。
朔久の熱い眼差しが妙に心をざわつかせる。
なにか言わなきゃと思い
「そ、そういえば……なんでここに…?」
と声がうわずるのを感じながら訊くと
「楓、近くのカフェで腹拵えしてから行くって言ってたでしょ?だからここかなーと思って、待ちきれずに迎えに来ちゃった」
「…っ」
俺は朔久の相変わらずの彼氏ムーブに何も言えずにただその場に固まった。
そんな俺を見て朔久は満足げに微笑むと、将暉さんたちの方に顔を向けた。
「2人の邪魔しても悪いだろうし、楓、そろそろ行こうか」
そう言いながら朔久は俺の手を取って立ち上がらせる。
思わず息が詰まる。
そんな俺をよそに朔久は慣れた手つきで俺の伝票を手に取り会計を済ませる。
「えっ…ちょっ…ご、ごめん二人ともまたねっ、デート楽しんで……!」
別れ際にそう言うと将暉さんはニコニコと俺の状況を楽しむかのような表情で手を振って
一方、瑞希くんはさっさと行ってくださーい
みたいな顔で虫でも払うように手を振ってニヤついていた。
俺は久に促されるまま店を出て、2人きりになった途端
朔久のペースに呑まれてしまう気がしてならなかった。
「朔久、今のカフェじゃだめなの?騒がしかったりはしないと思うんだけど…」
「ちょっとね、この近くに打ち合わせするには丁度いいコワーキングスペースあるからそこの方がいいかと思ってね」
「コワーキングスペース?そ、それはいいんだけど…朔久、手…離してくれる……?」
「あっ、ごめんごめん。つい」
そう言いながら手がゆっくりと離れていく。
「にしても楓、本当に可愛くなったね」
朔久は嬉しそうに笑いながらも、どこか挑発的な口調で囁く。
「そ、そんなこと言うの朔久だけだよ」
「だから俺は……」
朔久の声が不意に途切れる。
その続きは聞けなかった。
ただその沈黙が意味するものは分からずとも俺の心臓は嫌な鼓動を刻む。
「ま、いいや。早く行こう」
朔久はそう言って前を向く。
その横顔に浮かぶのは優しい笑顔。
けれどその裏に隠された感情を読み取ることはできない。
「うん」
俺は頷いて、朔久の後に続いた。
◆◇◆◇
カフェを出て、住宅街を歩き始める。
午後の日差しは相変わらず穏やかで、街路様の葉が風に揺れる音が耳に心地よい。
しかし、俺の心臓は先ほどの出来事と
朔久の隣を歩くという状況に、まだ落ち着きを取り戻せずにいた。
「楓、高校出てすぐこっち来たんでしょ?この辺りはもう慣れたの?」
朔久が何気ない声で話しかけてくる。
彼の声はいつも通り優しく
まるで何事もなかったかのように聞こえる。
そのことに、俺は少しだけ安堵し、同時に複雑な感情を抱いた。
「うん、まあね」
たり障りのない返事をしながら、俺は横目で朔久の横顔を見た。
先日知ったばかりの「WAVEMARK JAPAN」の
CEO、色川朔久という朔久のもうひとつの顔。
世界を股にかけるビジネスマンが、今、俺の隣を歩いている。
その事実が、まだ現実離れしているように感じられた。
頭の中で、瑞希くんとの会話がリフレインする。
『元カレと…ねぇ?』
『ぶっちゃけあっちはワンチャン狙ってたりして
ねぇ』
瑞希くんの言葉が、妙に生々しく響く。
もちろん、朔久はただ俺をからかっているだけだろう。
そう自分に言い聞かせるけれど
頬に残る微かな熱が
それを否定するようにじんわりと広がっていくような気がした。
住宅街を抜け、少しずつ道幅が広がり、車通りが増えてくる。
街の音が大きくなるにつれて、俺の思考も加速していくようだった。
「今回の仕事だけど、楓の感性で、どんな空間になるのか、今からワクワクしてるよ」
朔久が俺の顔を覗き込むようにして言った。
その目は、純粋な期待に満ちているように見えた。
仕事への熱意が蘇り、少しだけ心が軽くなる。
「俺も。朔久にそう言ってもらえると、すごくやる気が湧いてきたかも」
素直な気持ちを伝えると、朔久は満足そうに微笑んだ。
その笑顔は、昔と変わらない無邪気さを含んでいて、一瞬、過去の記憶がフラッシュバックした。
あの頃は、こんな風に隣を歩くことさえ当たり前だったのに。
「楓は昔から、自分の好きなことにはとことん熱中するタイプだったからね。その集中力と、何よりもその才能を、俺は知ってるから」
朔久の言葉が、俺の心にじんわりと染み渡る。
彼の言葉は、俺の努力を
そして俺自身を、深く理解してくれている言葉だった。
世界で活躍する友人が、俺の能力や、俺の陽だまりの向日葵を評価してくれている。
その事実が、俺の胸に温かいものを灯した。
目的地に近づくにつれて、人通りはさらに増え
街は一層賑やかになる。
様々な看板が目に飛び込み、活気ある声が耳に届
く。
そんな喧騒の中を、朔久は迷うことなく進んでいく。
朔久の背中は、どこか頼もしく、そして遠い存在のように感じられた。
(朔久は、本当にすごいな……)
改めて、朔久の輝かしいキャリアを思い出す。
高校卒業後、単身スペインへ渡り、芸術と哲学
そしてビジネススクールで広告戦略を学んだという。
その行動力と知的好奇心に、ただただ感嘆するばかりだ。
俺がただ、この花屋で毎日を過ごしていた間に朔久は世界を駆け巡り、名を轟かせていた。
今更ながら、その途方もないギャップが、俺の向上心に火を付けてくれるようだった。
「ここだよ」
朔久の声で、思考が途切れた。
見上げると、ガラス張りのモダンなビルが目の前に立っていた。
「workspace +N ogikubo」
のロゴが、洗練された印象を与える。
「ここ、すごく集中できるから。今日の打ち合わせも、きっと捗るよ」
朔久が振り返り、俺に優しい笑顔を向けた。
その笑顔は、俺の不安を打ち消すかのように温かく、そして自信に満ちていた。
中に入ると、外の喧騒が嘘のように遠ざかり、静かで洗練された空間が広がっていた。
高い天井には間接照明が配され、柔らかな光がフロア全体を包み込んでいる。
木目調の壁と、モダンなデザインの家具が調和し、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
「思ったより広いんだ」
俺が呟くと、朔久は得意げに頷いた。
「うん、個室ブースも多いし、用途に合わせて使い分けられるんだ」
朔久は慣れた足取りで、受付を通り過ぎ、奥へと進んでいく。
その堂々とした立ち居振る舞いは、まるで自分のオフィスであるかのように自然だった。
俺は朔久の後を追いながら、周囲を見回す。
プライベートな集中席では、人々が黙々とPCに向かっていたり
皆、真剣な表情で、それぞれの仕事に没頭しているようだった。
その光景に、俺も自然と背筋が伸びる。
ここに来るまでの戸惑いや
朔久への複雑な感情が、少しずつ仕事モードへと切り替わっていくのを感じた。
朔久が案内してくれたのはビッグテーブルと呼ばれる
横並びに座る仕切り付きのカウンターにも似たような席。
窓からは午後の日差しが差し込み、明るく開放的な空間だ。
「さ、座って」
朔久が椅子を引いて促してくれる。
俺は少し緊張しながら椅子に腰掛けた。
朔久はテーブルの端に自分のPCと、いくつか資料を広げ始めた。
その手つきは淀みがなく、無駄がない。
「じゃあ、早速だけど、東京ブルームプロジェクトについてもう少し詳しく説明するね」
朔久はそう言って資料を手渡してくれた。