声は、思っているよりも簡単に世界を壊す。
誰かの正しさが広がり、
誰かの怒りが重なり、
気づけば街は騒音に満ちる。
だからこの仕事は必要とされている。
少なくとも、俺はそう教えられてきた。
俺の役目は、声を消すことだ。
喉を潰すわけでも、言葉を奪うわけでもない。
ただ、その声が誰にも届かなくなる。
それだけでいい。
今日の対象は、広場の片隅で演説をしている男だった。
身なりは普通で、言葉遣いも穏やかだ。
怒鳴り散らすわけでもなく、過激な主張をする様子もない。
むしろ、耳を傾けたくなる声だった。
「この街は、どこかおかしい」
男はそう言った。
俺は人混みの中で足を止める。
こういう始まり方をする声は危険だ。
違和感を共有し、不安を形にし、やがて疑念を広げる。
声が広がれば、人は動く。
動いた人間は、必ず何かを壊す。
だから消す。
理由はそれだけで十分だった。
俺は男に近づき、処理を始める。
指先が、かすかに熱を帯びた。
「誰も気づいていない!でも、確実にー」
そこで、男の声は途切れた。
正確には、口は動いているし、言葉も発せられている。
ただ、それを聞き取れる人間がいなくなっただけだ。
通行人たちは、男の前を何事もなかったかのように通り過ぎていく。
男は一瞬きょとんとした顔をしたあと、周囲を見回した。
「……聞こえて、いますよね?」
必死に声を張り上げ、誰かの反応を探す。
だが、誰一人として足を止めない。
俺はそれを確認し、背を向けた。
仕事は完了だ。
帰り道、ふと違和感を覚えた。
街のざわめきが、遠い。
人の話し声も、足音も、車の走る音も、確かに耳には届いているはずなのに、どれも輪郭が曖昧だった。
まるで、世界そのものが
「 聞かれないこと 」に慣れ始めている。
そのとき、背中に視線を感じた。
ありえないと思いながら、俺は振り返る。
さっきの男が、こちらを見ていた。
消された声は、もう誰にも届かない。
視線が合うことすら、本来は起こらないはずだった。
男は、確かに俺を見つめていた。
そして、ゆっくりと口を動かす。
「君も、聞こえてるだろ」
声は聞こえなかった。
それなのに、言葉の意味だけが、妙にはっきりと理解できてしまった。
俺は答えず、その場を離れた。
胸の奥に、小さな異物を残したまま。
少し歩いてから、確かめるように振り返る。
そこに男の姿はもうなかった。
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