「男ってそんなに自分のセックスに自信があるの?」
途切れることなく聞こえていたキーボードを叩く音が止むと同時に、成瀬が言った。書庫の前で領収書のファイルと格闘していた俺と藤川課長は、思わず顔を見合わせた。
「咲、なんつー――」
「『今夜は3ゴール決めた』『女イキすぎてぶっ飛んでた』『俺の息子強すぎて自分でもマジ怖えー』『出し過ぎて干からびそう』『女が咥えて離してくんない』」
「おいおい!」
藤川課長が慌てて成瀬の言葉を遮った。
「清水がSNSに書き込んでる」
成瀬が苛立っているのが、抑揚のない低い声で分かる。いや、苛立ちを通り越して怒りや軽蔑、嫌悪だろう。
「どこまでも下劣な野郎だな」
藤川課長が言った。
成瀬は紅茶を流し込み、デスクに置いた。
「男も男なら、女も女か……」
「というと?」
「『早漏オヤジ、使えねー』『ちょっと啼いてやったら鼻息荒くしてた』『自信満々に握らせてきたけど、小さすぎて感じる気しない』『ハメ撮りで脅す気っぽいけど、逆に金むしり取ってやる』」
「それは……?」
今度は俺が聞いた。
「清水の写真に写ってた女がSNSに書き込んでる」
「類は友を呼ぶ……ってか?」
藤川課長。
「怖えー……」
俺も呟いた。
「ついでに……」
成瀬が手早くキーボードを叩いた。
「『新しい庶務課長イケメン』『誰か飲みに誘ってよ。お持ち帰りしたい』『ああいう爽やかなお坊ちゃんは、軽く挟んでやったら簡単にハマりそう』」
「俺っ?」
自分でも恥ずかしいほど上ずった声を出してしまった。
「『総務課長とセフレ希望』『指使い上手そう』『ベッドではMキャラっぽい。啼かせたい』だって。真ってMなの?」
「冗談だろ――」
藤川課長は絞り出すように言った。
成瀬は無表情で俺たちを見た。
「お望みなら書き込んだ女子社員の名前教えますよ?」
背筋が凍り付くような、冷たい笑み――。
胸の内を見透かすような鋭い眼光――。
俺はゴクンッと音を立てて唾を飲んだ。成瀬から目を逸らせない。
なんて顔をするんだ……。
「咲、集中しすぎだ。休憩しろ」
藤川課長もまた低く冷たい声で言った。成瀬が目を伏せた。
「今年の一月二十日、二月四日、二月二十五日、三月二十六日付で、清水が処理した領収書がないか探して」
「わかった」
藤川課長が持っているファイルを閉じた。
「三階行ってくる……」
成瀬は自分のバッグを持って、エレベーター奥の階段を上がって行った。
「驚きましたか?」
藤川課長は一月のファイルを取り出して、言った。
成瀬が侑の上司だったこと?
あんな冷たい表情をすること?
成瀬と藤川課長が予想以上に親密だったこと?
「はい……」
俺はすべてに対して答えた。持っていたファイルを書庫に戻して、今年二月のファイルを出した。
「あなたはこれ以上関わらない方がいい」
藤川課長はファイルからは目を離さずに続けた。
「仕事とはいえ、咲がしていることは犯罪スレスレだ。事実が露呈した時、社長の息子が黙認していたとなれば横領なんて規模のスキャンダルでは済まない。手を借りたこと自体間違いだった」
俺は二月四日の領収書と申請書をファイルから外し、コピーを取る。
「あなたが咲を糾弾するというなら、話は別ですけど」
藤川課長に言われて、自分でも驚いた。
成瀬が立場を偽って庶務課にいること、他人のPCを操作していること、社外の人間の顔認証なんて一企業の部署の権限でやっていいことではないはずだ。ファイルのロックを解除したり、SNSに書き込んでいる人間の特定なんてクラッキングだろう。いくら犯罪を暴くためとはいえ、会社として認められる行為ではない。公になれば、俺の立場も会社の存続も危ぶまれる事態だ。
それはわかるのに、俺の頭に成瀬を糾弾しようなんて考えが微塵もなかった。
「藤川課長は、どうして成瀬の手伝いをしてるんですか?」
俺は領収書をファイルに閉じ直した。
今度は藤川課長がコピー機の前に立つ。
「さっきの咲をどう思いましたか?」
藤川課長が俺に聞き返した。
「どう……って。色々と思うことはありましたけど、一番は『相当危ういな』と思いました」
「だから、あいつを一人にはしておけない」
藤島課長が成瀬のことを『あいつ』と呼んだことに、妙に苛ついた。歓迎会の時から気になっていたことを口にした。
「藤島課長と成瀬はどういう関係ですか?」
「館山から聞いていませんか?」
だから、聞いてるんだろ――。
俺の苛立ちを弄ぶように、藤川課長は得意気に言った。
「三階の喫煙室にいるでしょうから、咲に聞いてください」
成瀬が煙草を吸うとは意外だった。
このビルに喫煙室は三階と八階にしかない。どちらの階もミーティングブースと会議室があるから、取引先の人間に配慮したためだ。
三階フロアは暗く、肌寒かったが、ガラス張りの喫煙室の明かりで全体の様子は窺えた。
喫煙室では成瀬が分煙機の前に立っていた。
「煙草、吸うんだな」
成瀬が横目で俺を見た。無表情で煙を吐き出す。
「本当に疲れた時だけ……」
「一本もらえるか?」
「どうぞ」
成瀬はシガーケースを滑らせた。
俺は五年くらいぶりに煙草をくわえた。火をつけて、シガーケースを成瀬に返す。
「明日、退職願を提出します」
成瀬が静かに言った。
「承認印を押して部長に上げてもらえれば、後はこちらで処理します」
「辞めたいのか?」
俺は久しぶりのニコチンを味わいながら聞いた。
「清水課長の件は藤川課長から部長に調書を提出してもらいます。彼は私が勝手に巻き込んだだけですから、今回のことは私の退職だけで済ませてください」
成瀬は俺と目を合わせようとしない。
「辞めたいのか?」
苛立ちを隠して、俺はもう一度聞いた。
「黙認すれば、課長もただでは済みませんよ」
成瀬は短くなった煙草の火を消した。
侑にも藤川にも答えをはぐらかされ、バカにされているとしか思えなかった。
侑には『自分の目で確かめろ』と事情も知らされずに呼び出された。
藤川には『これ以上関わるな』と言われた。
成瀬には『退職届に判だけ押せ』と言われた。
ふざけるな。
誰もかれも俺が社長の息子だから、何も出来ないと思っているのか――。
「成瀬、俺はお前が辞めたいのかと聞いたんだ」
今度は怒りを隠さずに、聞いた。
成瀬もそれに気が付いて、ようやく俺と向かい合った。
「辞めたいです」
正直、驚いた。
俺に知られて仕方なく辞める、のだと思っていたから。
煙と一緒に怒りも吐き出した。
「理由は」
「あなたに知られたからです」
「強請られるとでも?」
「まさか」と成瀬は笑った。
「あなたには私から強請り取りたいものなんてないでしょう?」
ああ、こういうテンポのいい会話は好きだな。
初めて話した時も、そう思った。成瀬も俺との会話を楽しんでいるように感じた。
自惚れだろうか……。
「だったら、なぜ辞める?」
「煩わしいから」
わず――。
「女に、煩わしいと言われたのは初めてだな」
「そうでしょうね」と言って、成瀬は再び煙草に火をつけた。
「君の知らないところで、俺が君の部下と繋がっていたことが不満か?」
「いえ。侑の考えは大体わかってましたから」
「だったら、何が煩わしい?」
「あなたのすべてが」
「えー……っと」と俺は弾む会話に水を差してしまった。
これまで、女の言葉にこれほど翻弄されたことがあっただろうか。
というか、成瀬ってこんなキャラだったか?
「具体的に言ってもらえる?」
「こういう会話も煩わしい」と、成瀬は煙と一緒に吐き捨てるように言った。
「基本的に、他人と深く関わることが煩わしいんです。侑とあなたが親しい友人だと知らない振りをしてあなたの出方を見たのは、避けていてもきりがないだろうと思ったからです。あなたが侑にどう言われた知りませんけど、好奇心とか正義感とか同情とか鬱陶しいだけですから――」
煩わしいの次は、鬱陶しいか……。
ふと、成瀬咲の本当の姿はどこにあるのだろうと思った。
庶務課で働く、穏やかで周囲に気配りの出来る成瀬咲。
極秘戦略課課長として社員の不正を暴く、無表情で隙のない成瀬咲。
自分を『メス』にしてくれる『オス』を求める成瀬咲。
俺の腕の中で無防備に眠っていた成瀬咲。
今、俺の前で苛立ちを煙草で誤魔化しているのは、どの成瀬咲だろう――。
「だから……」と言いかけて、成瀬は急にしゃがみこんだ。
「どうした?」
「気持ち……悪い――」
成瀬は口を押えてうつむいている。
「それは……吐くほど俺が鬱陶しいってことか?」
「そうじゃなくて――」
俺は少し乱暴に、荷物を持つように成瀬を肩に抱き上げた。
「ひゃっ――! ちょ、降ろして――」
俺は暴れる成瀬を抱えて喫煙室を出て、向かいのミーティングブースの椅子に彼女を座らせた。
喫煙室横の自動販売機で水を買って、成瀬に渡す。
「ありがとう……ございます」
成瀬は恥ずかしそうに受け取った。
俺は成瀬の足元に跪いて、彼女を見上げた。
「で、体調が悪いのか? それとも本当に俺が気持ち悪い?」
「清水の写真が……」
「ああ、あれはキツイよな――」
成瀬は水を一口飲んで、ふぅっと息を吐いた。
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