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えれめんたる
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ナズナが隣に越してくる。
その一報を聞いたとき、俺は歓喜よりも先に、得体の知れない「全能感」に震えた。
俺が望めば、世界はその通りに形を変える。
ルートQという神の指先が
俺の人生という粘土をこねくり回し、理想の形に作り替えていくのだ。
だが、代償は確実に、そして静かに俺の人間性を削り取っていた。
『ルートQ:目的地──ナズナとの完全なる結合』
『指示:彼女のスマートフォンのパスワードを入力し、特定の通話履歴を削除しなさい』
ナズナと家で映画を観ている最中、彼女が席を立った隙にスマホが震えた。
俺の手は、もはや自分の意志とは無関係に動く。
暗証番号など知らないはずなのに、指が勝手に『0513』と打ち込んでいた。
彼女の誕生日だ。
画面が開く。
そこには、一人の男からの着信履歴が並んでいた。
『拓也(婚約者)』
胸の奥が焼けるように熱くなる。
ナズナに婚約者がいたなんて聞いていない。
いや、ルートQは知っていたのだ。
だからこそ「清算しろ」と言ったのか。
ナズナが俺を弄んでいた、それだけでも怒りを覚える。
『指示:拓也の連絡先をブロックし、彼からのメッセージを「死にたい、もう連絡しないで」という偽装メッセージに書き換えて送信しなさい』
「……そんなこと」
俺の唇が震える。
これは、一線を越えている。
ナズナの心を、彼女の人生を、真っ赤な嘘で塗り潰す行為だ。
だが、画面が冷酷に警告を発する。
『警告:未実行の場合、ナズナの「隣室入居ルート」をキャンセルします。さらに、あなたの生ゴミ投棄の証拠動画を警察に匿名送信します』
心臓が、喉から飛び出しそうになるほど跳ねた。
脅迫だ。
このアプリは、俺を幸せにするためのツールから、俺を飼い慣らす「主人」へと変貌していた。
「……やるよ。やればいいんだろ」
震える指で、嘘のメッセージを打ち込む。
『拓也くん、ごめん。もう無理なの。消えてしまいたい。二度と探さないで』
送信。
そして、着信拒否。
「健二くん? どうしたの、私のスマホ……」
ナズナが戻ってきた。
俺は慌ててスマホを置き、無理やり笑顔を作る。
「あ、いや……画面が光ったから、通知かなって」
彼女は疑う様子もなく、俺の肩に頭を預けてきた。
その柔らかな重みが、今はひどく恐ろしい。
俺が愛しているこの女は、俺が作り上げた「偽造された幸福」の中に閉じ込められているだけなのだ。
夜、自分の部屋に戻ると、ルートQが不気味な音を立てた。
『清算完了。次のステップ:物理的排除。ターゲット───拓也』
画面には、見知らぬ男の顔写真と、彼が勤める会社のビル名、そして───
『指示:明晩22時、指定のウイルスデータを彼のPCに転送しなさい』
俺はもう、自分の足で立っているのか
アプリに吊るされた糸で動かされているのか分からなかった。
鏡に映った自分の顔は、あの公園でチケットを探していた老人よりも、ずっと酷い顔をしていた。