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「はい。じゃあこれで、帰りのホームルームを終わります」
 いうと同時に担任の谷矢が、パタンと音を立て、バインダーを閉じる。まるでそれに呼応でもするように、頭上のスピーカーがチャイムの音を響かせる。
「皆さん気をつけて帰るように。ではまた明日」
 周りからはがやがやと、生徒たちのおしゃべりの会話が聞こえてくる。
 僕はというと、手に汗を握り、うつむき加減に机に座ったまま、その時がくるのを、どくどくと鳴る心臓の音を聞きつつ、待っている。
「おい鈴木」
 きた……と思う。それからすぐに、肩に痛みが走る。
「このあといつものところな」
「あ……はい……分かりました……」
「コーラな」
 瀬戸口が、もう一度僕の肩を殴る。もう一度……もう一度。
 勢いが強かったので、押された僕の体が机にあたり、放課後の教室内に硬い音が響き渡る。
 一瞬、まだ教室内に残っていたクラスメイトの視線が僕の方に向けられたが、すぐにそらされ、皆まるで何事もなかったかのようにそそくさと、教室から出てゆく。
「あ、じゃあ俺はファンタで」
 もう一人の男子生徒、串田がいう。ズボンのポケットに、両手を突っ込んだ格好で。
「買ったらすぐこいよ。遅れたら殺すから」
「わ、分かりました。……はい」
 僕は瀬戸口に応えると、はあはあと息を荒らげつつ、反射的かつ不本意な微笑を、二人に向ける。
 ──世界が嫌いだ。
 人が嫌いだ。
 なにもかもがクソだ。
 全部全部全部……砕け散ればいい。
 教室から出ると、僕はコーラとファンタを買うため、体育館脇にある自動販売機へと向かう。途中生徒会室の脇を通るのだが、そこでとある人物の姿を見かける。
 長い黒髪に目鼻立ちの整った白い顔。制服に乱れはなく、ネクタイがしっかり上まで締められているばかりでなく、ブレザーのボタンも全てかけられている。
 彼女の名前は柴田千鶴。僕と同じ三組の女子生徒だ。
 ……こんなところで、一体なにをしているんだろう?
 とぼとぼと歩きつつ、僕はちらっと柴田さんへと視線を送る。
 柴田さんは『生徒会BOX』と書かれた箱の前で立ち尽くしており、なにやら手に持った紙片へと視線を落としている。
 生徒会BOX? ……投書か? でもなんの? ……まあ、どうでもいいか。
 カタッと、落下した紙片が箱の底にあたる小気味よい音が聞こえると同時に、柴田さんが、まるで逃げるように踵を返す。
 どうやら、僕がそこにいるのに、今の今まで気づいていなかったみたいだ。
 彼女は一瞬驚いたような顔をすると、「あ……あの、ごめんなさい」となぜか謝罪の言葉を口にしてから、足早に立ち去る。
 ……一体なんなんだ? 見られたらまずいものでも、投書したのか?
「おっせーよ! なにしてんだよグズが!」
 いつもの場所──そう、校舎裏にいくと、そこにはすでに、瀬戸口と串田の姿がある。
 イライラしているのか、瀬戸口は長い髪を何度もかき上げ、足でコンクリートの地面を打っている。串田はその場にうんこ座りをしており、プリンになった金髪を指先でくりくりといじっている。
「す、すみません。これ、頼まれていた……」
 コーラを差し出すと、瀬戸口が奪うようにして取る。
「あ、わりい。急にコーヒーって気分になったわ。買ってきてくんね?」
「え? でも……」
 瀬戸口はペットボトルの蓋を取ると、僕の頭からコーラをかける。
「おい鈴木テメー」
 串田も、同様に奪うようにしてジュースを取ると、ニヤニヤと笑みを浮かべつつ、頭からかける。
「これグレープじゃねーか。俺は今オレンジって気分なんだ」
「でも……串田さん……いつもはグレープで」
 間髪を容れずに、瀬戸口が僕の頬にこぶしを繰り出す。
 その後も暴力は続き、地面に倒れ込んだ僕に対し、執拗に蹴りを食らわせる。
「やめてください! やめてください! お願いです!」
「お前今、俺らに歯向かったよな? なあ!?」
「いえ! 歯向かっていません! そんなわけないじゃないですか!」
「がたがたいってんじゃねえよ! お前見てるとムカつくんだよ!」
「瀬戸口、これ使う?」
 串田が、瀬戸口になにかを渡す。どこから持ってきたのか、それはところどころ錆のついた、鉄パイプだった。
「おおーいいねー」
 串田から鉄パイプを受け取ると、瀬戸口が振り上げる。
「むしゃくしゃしてたんだよ! 武田がむちゃくちゃいいやがるからよお! すっきりさせてくれや! なあ!?」
「瀬戸口! しーっ! しーっ! あんまでかい声でいうと、武田先輩に聞かれるって」
「わーってるよ! クソが……クソがぁ!」
 鉄パイプが、僕の脇腹にめり込む。
 一発……二発……三発……と。
 あまりの激痛に意識が飛びそうになる。……というか、多分少し飛んだ。一瞬間、痛みを感じなくなったような気がしたし、気がつけば、僕は地面にうつ伏せになり、口から血を垂れ流していたから。
 頭上からは、ぎゃははは! という、下品な笑い声が聞こえる。
 僕は、まるで現実から逃げるように、校舎裏の先……日の光が斜めに差す、アスファルトの通路の方へと視線を送る。
 不意に、とある人物の姿が目に飛び込んでくる。
 それはなんらかの用事で通りかかった、この学校の職員であり、教師であり、担任でもある、谷矢義嗣、その人だった。
 無駄とは分かっていたが、僕はそんな彼へと、腕を伸ばす。
 こちらの存在に気づいた谷矢が、ちらりと顔を向ける。
 インテリっぽい眼鏡越しではあったが、明らかに、目が合った。
 しかし谷矢は案の定、いつも通りに、まるで気づかなかったといった様子で顔をそらすと、そのままそそくさと、姿を消した。
 ……生徒が無視するのは……まだ分かる。でも谷矢、あいつは教師だろ。教師が無視をして、あまつさえ見なかったことにしようとするのは……それはもう犯罪だろ。
 結局、面倒くさいんだ。問題にしたくないんだ。責任を負いたくないんだ。
 人間なんて……所詮はそんなもんだ。
 ずきずきとする不快感に、ふと目を覚ますと、僕は全裸にされていた。
 自分の顔は見ることができないのでなんともいえないが、多分酷いことになっているのだろう。首から下に関しては、そこら中あざだらけであり、ところどころ血が滲み、こびりついている。
 とにかく……着替えないと。外で全裸は……まずい。
 小便臭い制服に袖を通すと、僕は絶望的な気持ちを胸に、帰宅しようと顔を上げる。
 ──え? と思う。
 と同時に、眼前の光景が、音が、あまりにもおぞましかったので、僕は全身に悪寒が走り、一瞬にしてパニック状態におちいる。
 巨大な羽虫だ。羽を含めたら、バスケットボールぐらいの大きさはあるのではないかと思われる蚊のような羽虫が、ぶうううううううんという身の毛もよだつ音を立てつつ、僕の目と鼻の先で滞空飛行をしているのだ。
「う、うわああ──っ!?」
 叫ぶが早いか、その巨大な羽虫が、僕の口をめがけて、飛び込んでくる。
 とっさに僕は、羽虫の尻の辺りをつかみ、引っ張り出そうとする。
「がっ……ぐぅはっ……がはっ……」
 だめだ! だめだだめだだめだ! なんだこれ? なんだよこれ!? なんでこの虫、僕の口に!?
 羽虫は、僕の手から逃れようと、口の中で暴れ回る。
 巨大な羽虫が口の中で暴れていると思うだけで、僕は鳥肌が立ち、今にも吐き出しそうな気分になる。
「ぐぅは……おえっ……あっ……かはっ……」
 このままじゃヤバい! そう思った僕は、羽虫を口から出そうと、手に渾身の力を込めて引き抜く。
 ──ブジィッ……という、鳥肌モノの音と共に、羽虫の尻の部分がちぎれる。
 僕は、そのあまりの気持ち悪さ……衝撃に、まるでヒューズが飛んだように、意識を失う。
 体の中に羽虫が、もぞもぞと入ってくる、そんな感覚を覚えつつ。
「うわあああああああっ!」
 飛び起きると、いつの間にか俺は、自室のベッドの上にいた。
 時刻は朝の七時ちょうど。カーテンの隙間からはまだ新しい日の光が差し込み、床に細くて長い光の線を引いている。
 え? あれは夢だったのか? 確か校舎裏で、巨大な羽虫が……。
 喉に触れる。パジャマをめくり上げ、自分の体を確認してみる。
 あれ? これって……。
 虫が体の中に入ったか、もし入ったならそれによる影響は? 等を確認するつもりだったが、俺はそこに、予想外の状況……というか変化? を見る。
 瀬戸口、串田による暴行のあざが、なくなっていた。ただなくなっていたのではない。完全に、きれいさっぱりなくなっていた。さらにいえば、過去にいじめを受けた際につけられた、今後一生消えないだろうと思っていた傷跡や、根性焼きの痕さえも。
 鏡の前にいくと、俺はぐぐぐと顔を近づけ、入念に確認してみる。
 ……体と同じだ。顔から、あざやら傷やらが完全に消えている。気のせいかもしれないが、広がった毛穴が閉じ、ニキビとかの肌トラブルまでもがなくなっているように見える。
 こんなことってあるのか? よく分からないけど、とにかく治った……そういうことでいいのか?
 昨日の昼からなにも食べていないはずなのに、なぜか全然腹がへらなかったので、俺は洗い立てのシャツに着替えると、予備の制服に袖を通し、さっさと学校へと向かうことにする。
 なんか、すごく体調がいいな。体が軽いっていうか。
 気分がよかったので、俺は学校へ向かう道すがら、久しぶりに音楽を聴くことにする。
 イヤホンから軽快なポップが流れ始めると、まるで自分の体が自分の体じゃなくなったみたいに、ゾクゾクとした高揚感が湧き上がってくる。脳からは、体感できるほどの、なんらかの物質がほとばしるのを感じる。
 なんだこれ? すごく気持ちいい。なんかほわーんとする。音楽って、こんなに効果あったっけ?
 音楽に集中しすぎたのかもしれない。周囲に対する意識が散漫になってしまった俺は、どこぞの誰かと肩と肩をぶつけてしまう。
「あ、すみません」
 とっさに謝り振り向くと、そこには口をだらしなくあけ、よだれを垂れ流す、見るからにイッちゃってるようなおじさんがいた。肌は青白く、ところどころ黒ずんでおり、まるで死人みたいだ。目は左右違う方向を向いており、なにかを見るわけでもなく、どこか虚空へと向けられている。
 キレたのか、男は大きな口を開け、なにか叫んでから、両腕を高く振り上げる。
 しかしなにを思ったのか、その後すぐに男は腕を下ろすと、まるで興味を失ったかのように俺に対し背を向け、ふらふらとした足取りで去ってゆく。
 なんなんだ? あれじゃあまるでゾンビだな。
 俺の心の声に応えるように、どこからともなくハエが飛んできて、男の首に、ちょうどほくろのある辺りにとまる。
『二年三組、鈴木悟くん、至急生徒会室まできてください』
 午前の授業が終わり、昼休みに突入した瞬間、スピーカーから俺を呼び出す放送の声が聞こえる。
 生徒会室? 一体なんだろう? 俺は首を傾げつつ、どうせ教室に居場所はなかったので、暇つぶし感覚で気楽に向かう。
「鈴木悟くんね。そこにかけてくれる?」
 生徒会室に俺が入ってきたのを確認すると、部屋に一人でいた生徒会長、宇佐美涼子が、あらかじめ開かれていたパイプ椅子を手で示しつついう。
 宇佐美さんはサラサラとした黒髪を、白のカチューシャで上げている。姿かたちは整っており、女子の割には背が高いというのもあり、かわいいというよりはむしろ、美しいといった印象がある。
 多分、いいとこのお嬢様なのだろう。その口調、話す時に小首を傾げる仕草は、間違いなく上級家庭のそれだ。
「それで、一体なんでしょうか?」
 椅子に腰を下ろすと、俺は腕を組み、宇佐美さんへと視線を送る。
「実は先日、珍しく生徒会BOXの方に投書があったの」
 宇佐美さんは窓際に置かれた事務的な机に近づくと、その上にのせられていた一枚の紙を取り上げ、俺へとひらひらとかざす。
「はあ。で?」
「投書の内容はこう。『二年三組の鈴木悟くんがいじめを受けています。教師も生徒も皆見てみぬふりをしています。ですので生徒会の方でなんとかできませんか? よろしくお願いします』」
「……誰からですか?」
 宇佐美さんはその切れ長の目を伏せると、左右に小さく首を振る。
「名前はないわ。匿名ね」
 ……多分、柴田さんだ。
 宇佐美さんは今しがた、『珍しく生徒会BOXの方に投書があった』といった。そして昨日、俺は放課後に生徒会BOXに投書する柴田さんの姿を目撃した。だったら、いじめの告発をしたのは、柴田さんと考えて、間違いないはずだ。
「それで──」
「こんなこと」
 まるで俺の口をふさぐように、俺の声にかぶせるようにして、宇佐美さんがいい出す。
「あるわけがないわよね?」
「え?」
「私が生徒会長を務めるこの清条高校で、いじめなんていう不祥事、あるわけがないわよね?」
「…………」
 俺が黙ったのを見ると、宇佐美さんは投書を手に持ったままパンと音を鳴らして手を合わせ、それからすぐにためらうことなく紙をやぶり始める。
「この件はこれでおしまい。告発なんてなかった。そんな文章はどこにも存在しなかった。ましてやこの学校内において、いじめなんていう不祥事……あるはずもなかった。いいわね? 鈴木くん?」
 ……こいつは、いじめを隠蔽しようとしている。あるいは生徒会長という立場を危ぶんで……いやそうじゃない、自分の名前に傷がつくのを恐れ、事実を揉み消そうとしている。なんて卑劣なやつなんだ。クズだな。
 もうどうでもよくなった俺は、椅子から立ち上がり宇佐美さんに対し背を向けると、一度声に出さずにため息をついてから、肩越しにいう。
「はい。いじめなんかありません。この学校は、今日も平和で、なにより皆仲良しです」
 生徒会室から出てスマホを確認すると、いつの間にかメッセージがきている。
 メッセージは串田からで、購買で惣菜パン十個と飲み物を買っていつもの場所にこいという、いわゆるパシリの連絡だった。
 俺は、特に思うことなくスマホをポケットにしまうと、これまた特に思うことなくその足で購買のある一階へと向かう。
 いつもなら、焦って、走って、絶望的な気分になるのに、なぜか今日にいたっては、冷静沈着な心持ちで。
 これは……なんだ?
 購買の前に着くと、俺は立ち止まり、購買に群がる生徒たちをうしろから見る。
 そこには争奪戦の戦場……というよりはむしろ、暴動の現場のような光景が広がっている。
 しかも生徒たちが追い求めるものは、カウンターに並べられたパンやらおにぎりやらではなく、なんとその向こうにいる、販売のおばさんたちだ。
 一体なにが起こっている?
 俺は、一歩、また一歩と近づき、うしろからそっと、様子をうかがってみる。
 生徒たちがおばさんを床に押さえつけ、噛みついている。
 おばさんの体はところどころ食いちぎられ、ある者は内臓が床にこぼれてしまっている。
 床、天井、壁、全てが鮮血に染まっており、まるで殺戮の繰り広げられた、映画の一場面みたいだ。
 ……まるで、これじゃあまるで……。
 生徒たちの顔は、皆青白く、口を半開きにしている。皮膚は死人のように黒ずんでおり、表皮のところどころが腐ったように溶け、下にある真皮がむき出しになってしまっている。
 背後から、窓を通した中庭の方から、鬼気迫るような叫び声が上がったので、俺は反射的に振り向く。
 購買と、同様の光景が広がっている。
 逃げ惑う生徒たちに、それを追う、まるで動く屍のような生徒たち。やがては取り囲まれて、徐々に距離を詰められ、逃げていた彼らは、噴き出す鮮血と共に沈黙する。
 ──ゾンビ映画、そのものじゃないか。